DAY00_はじめに:あの日・あの空間にいたゴミのことを想う

SFC Creative Weekという展示イベントに向けて、ゴミを題材にした作品を制作することにした。同じく建築を学び、そしてゴミに興味を持っている友人のイワミさんとふたりで制作に挑む。ぼくらはゴミに興味がある珍しい建築系のやつらと括られやすいが、お互いゴミを見ている視点は全くと言っていいほど異なっている。今回の制作は、アウトプットそのものもさることながら、別角度から同じ物を見つめ合い、共に作品をつくるというプロセスによって気づかされることに、とても価値があるように思う。

卒業制作でも行ったように、日々の制作のあとには覚え書きのようなものを残すこと、そしてそれをアーカイヴすることを今回も行いたい。

マテリアルとゴミ

ぼくがゴミに本格的に興味を持つきっかけになったのは、紛れもなく卒業制作の影響が大きい。打倒資本主義を目指して(笑)、市場価値が0円になった物たちで何ができるのだろう、と考えるようになった。そこで路上生活者たちの家のつくり方を学ぶことにしたのだった。発端はかなりアナーキーな感じだし、その当時のゴミへの解像度はとても粗い。
しかしながら、卒業制作を経て、いくつかの気になるゴミの側面が浮き彫りになってきている。今はむしろ、アナーキーな建築論というよりも、マテリアル(の集合としての空間)と人間のつながりに興味がある。

ゴミは、とあるマテリアルの流転の一形態だ。その直前には誰かに使われ、そのさらに前には工場で生産されたのかもしれない。ゴミは処分されて終わり、なんてことはない。物理的には、ある部分はリサイクルに回されるかもしれないし、残った部分は焼却されて灰になるかもしれない。もっと観念的に考えてみれば、誰かの記憶に残り続けるかもしれない。スマートフォンで写真を撮っていれば、デジタルデータとしてどこかを彷徨っているかもしれない。ひとことにゴミと言っても、それはマテリアルの暫定的な姿に他ならないのだ。

アップサイクルに思うこと

現在、そのゴミの未来をデザインするアップサイクルと呼ばれるような取り組みは盛んに行われている。解体された家から古材を持ってきてアンティーク材として売ったり、廃棄されるホロをリユースしてつくられたバッグや財布を売ったりなどで有名だ。環境意識の高まりと共に、そのような取り組みは今後もどんどん増えていくだろう。最近個人的に、使わなくなったブルーシートを用いてバッグをつくったりもした。

一方で、これらのアップサイクルに感じる疑問もある。
ひとつ目の疑問は、アップサイクル後の商品が高額であることだ。もちろんマテリアル(ゴミ)の価値を高めて、市場に戻すという目的としては理解できる。しかし、ある一定のお金がある人しか買うことができないという現実がある。そしてその人たちは、環境意識の高さのアピールをするようにして、ゴミを消費していないだろうか。
ふたつ目の疑問は、消費者がそのマテリアル(ゴミ)の排出者じゃないことだ。バッグを例に出す。消費者はそのバッグに使われているマテリアル(ゴミ)に対して、新品のマテリアル以上の何かを感じ取ることができているのだろうか。結局のところ市場にあるバッグのうちの選ばれたひとつである限り、そこで起こるのはゴミの延命であり、使えなくなったら廃棄される可能性が高い。結局のところ消費文化にどっぷりと浸かっているように感じてしまう。

人間が知覚するもの

これらの疑問について考えるにあたって、「アノニマスなゴミが何を内包しているのか」という視点を大事にしていきたい。巨大な生産ラインによってつくられ、壊れたり必要なくなって生まれたどこにでもありそうなゴミについて、積極的に向き合うことを大事にしたい。そして、それがいつ頃つくられ/誰がどのように使い/なぜ今ここ(=ゴミ置場)にやってきたのか...というあらゆる情報を掴むために観察することを大事にしたい。

残念なことに、この世のほとんどのゴミたちは、アンティークショップで高値がつくような特徴や魅力がないとされているために、ゴミ置場にやってきた。そしてまた残念なことに、人間はそのマテリアルから多くの情報を獲得することなく、ゴミと判別し、ゴミ置場に送り出す。
これらの残念2点セットの根本にあるひとつのことは、現在の人間が物から知覚できる情報が限られているということがあるだろう。cmやkgといった単位で測ることができる定量的な情報に依存する他ないのだ。

しかしながら、ぼくたちは日常的に、それ以外の定性的な情報を持っていたりもする。全く使えない物でも、捨てることを戸惑う時はあるし、なんだか説明できない魅力が目に止まって、買ってしまうこともある。同じようにゴミもまた、定性的な情報を持っていたる。それをぼくたちは履歴と呼んでいる。ぼくらが決して前の所有者のことを知らなくても、履歴がそれを語ることがある。きっと新しく買い替えたのだろうとか、この家はIHのキッチンなんだとか、トマトソースのスパゲッティを食べていたんだとか。それは事実ではないただの推測なのかもしれないが、そのストーリーはぼくの中では紛れもなく存在することができる。
履歴を辿るようにして、ゴミに宿された時間を知覚してみることは、ある種の近代科学へのアンチテーゼでもある。視覚情報が支配的になる前では、このような知覚を用いて、現代以上の情報を限られた物から獲得していたかもしれない。先ほど述べた視点でゴミに向き合うのには、そういった知覚を身体化するという意味が込められているのだ。

建築の時間とゴミ

そしてぼくが興味を持って取り組んでいる建築では、これらのゴミが大量に出る。建築物の中には人間がいることが多い。住宅ならなおさらだ。住まう人のあらゆる定性的情報をその空間は持っている。だがしかし、それらの空間は様々な理由からゴミになっている。日本はなおさらスクラップアンドビルドの文化が根強くゴミになる建築の量も多いのだ。

そういう状況に向き合うようにして、そしてより環境に配慮したりローコストを重視することで、リノベーションやコンバージョンの実践も増えてきた。ただ、それらの実践も定量的に空間を捉えて設計が行われているだけではいつの日か限界がくるのでは、という懸念を抱いている。

今回の制作は、ゴミが内包する時間を読み解き、それらを空間に還元するという実験的なものだ。その制作の延長には、建築という大きな空間を相手にしてやろう、というぼくの狙いがあるということだけ、記しておきたい。これらについては自分の修士研究とも絡んでくるので、また今度詳しく書こうと思う。

さいごに

制作にめちゃくちゃワクワクしている。その一方で、自分が捉えている世界が広すぎてやや行方不明な感も否めない。建設現場/解体現場が出す産業廃棄物や、路上生活者が用いる手法論や、リノベーションの歴史など、今までなんとなく具体的に捉えてきたことを超えて、「知覚」や「時間」など新しいキーワードが増えてきたことが要因だろう。
これらの話題について、アドバイス等があればぜひいただきたい。おもしろいリサーチとなり、やがて世の中がすこしゆたかになるように。

ぼくのリサーチに関するフィードバックや情報提供お待ちしています!