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20201230 来年の抱負

「一番好きな場所?水の中かな」3年前、騒がしい居酒屋の席で彼女は笑ってそう言った。

渚とは親友の海斗の紹介で知り合った。当時僕たちは大学2回生で、海斗とは高校生からの友達だ。

「達也に紹介したい子がいるんだよ。会ってみない?」

なぜ海斗がそう言ったのかは今でもわからないが、彼女もいないしいわゆる大学生のノリに随分疲れ授業もバイトもテキトーに流してただ時間が溶けていくだけの毎日を過ごしていた自分にとっては会わない理由がなかった。

それから3人で会ったり、海斗の彼女を含めた4人で会ったりしていくうちに渚と2人で過ごす時間も増えていった。

渚は生粋の水泳選手だ。3歳から水泳を始めて大学でも水泳部に所属している。なかなかに有名な選手で高校の全国大会で優勝したことがあるくらいだ。

正直僕は水泳が苦手だ。なかなか前に進まないし、息が苦しくなるし、それにいい体でもないから水着を着るのが恥ずかしいし。水泳の授業なんて早く終われとしか思っていなかった。

「水泳やっててしんどいとか思うことないの?」渚に一度聞いたことがある。

「そりゃしんどいよー。陸上みたく早く前に進むことはできないし、息も苦しくなるしね。でも、周りの音が消えて、自分の泳いでいる音だけが聞こえる。辛いことも不安なことも全部忘れて無心になれるのは水泳してる時だけなの。だから水の中が一番落ち着くんだ。しんどくても続けれるのはそういうわけ。」

ショートカットの髪をなびかせながら彼女は言った。

綺麗な髪だなと僕は思った。

渚が出場する水泳の大会には都合がつく限り全部応援しに行った。彼女はいつも1位をとっていて、試合終わりに渡す差し入れを喜んでくれた。

渚の大学生活最後の大会も、差し入れを持って応援しに行った。いつも通り1位をとって受け取る差し入れを喜ぶ彼女を想像していたが、結果は3位だった。もちろん結果は素晴らしいものだが、気持ちは複雑だった。

「お疲れ様。惜しかったね。これ、差し入れ。」

「ありがとう。負けちゃった。最後もカッコよく1位とりたかったんだけどね。」

それを機に、彼女は泳ぐのをやめた。オリンピックの強化選手としての誘いもあったみたいだが、全て断ったみたいだ。

大学を卒業して以来、彼女とは会っていない。

僕はと言えば、都内のIT企業に就職し、日々仕事に追われながらなんとかこなして年末を迎えたところだ。

最近やけに多く悩んでいる。仕事のこと、お金のこと、将来のこと、漠然とした不安がいつも付き纏っている。ぼんやりとした不安で自殺した芥川龍之介の気持ちもわかる気がする。

そんな時、彼女の言葉を思い出した。

「無心でいられるのは、水の中だけなの。」

年末になると多くの人が来年の抱負を考え始める。何かを学ぶ決心をしたり、何か新しいことを始めることを決意したり。

そう、来年の抱負は泳ぐことだ。


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