(創作短編小説)女理髪師にお任せでと言ったら

わんこ(兄)よりお送りします。


「お待たせしました、こちらへどうぞ」
 理髪師は言った。理髪師は眼鏡をかけた女性だった。ショートヘアを淡い茶色に染めている。仕事で疲れているのか、それとも性格なのか表情が乏しい。いまいち何を考えているのかよくわからない。もっとも髪を切ってもらうだけなのだからどんな人だろうとどうでもいいのだが。
「髪型はどうなさいますか?」
 理髪師は尋ねてきた。
 しかし俺に髪型のことを考える余裕などなかった。最近仕事が忙しく、どういう髪型がいいのかということを調べる時間もなかった。道中もずっとどういう髪型にすべきか考えてみたものの、結局決まらなかった。
 正直、体裁さえ整っていればどんな髪型でも構わない。女性が見て、変だと思われない程度の髪型ならなんでもいいのだ。
「おまかせで。これからデートなんですけど、それに合う髪型でお願いします」
「はい、わかりました」
 俺はプロが判断を誤るはずはないと信じ切っていた。それに同じ女性同士で通じるものもあるはず。少なくとも素人よりはいい判断をしてくれるものと信じていた。
 理髪師はバリカンを手に取った。バリカンにスイッチが入り、振動音が響き始めた。
 なるほど、ツーブロはいい考えかもしれない。俺はツーブロの髪型にしている有名人をいくつか思い浮かべてみた。どの人もさっぱりとした男らしい印象がある。
 そもそもツーブロックは古来より強い男の象徴とされている。どのくらい前のことなのか聞くのは野暮というものである。どれくらい昔からみんながツーブロックにし始めたかわからないくらい、と考えておけばよろしい。
 ツーブロックにしている男と言えば、筋肉もりもりで虎の威にも劣らない覇気を持っているものと決まっている。たとえ実際にその男に筋肉がなかろうとも、ネズミほどな覇気しか持ち合わせていなかろうとも問題ない。ツーブロックにすれば途端にそれらの事実は覆い隠され、強い男として見られるようになるというわけである。
 バリカンが俺の頭に近づいていった。バリカンが今、俺の髪にいれられようとしている。ところがそれは俺の側頭部、ではなく前髪に入っていく。
 不穏な気配を察したときには手遅れだった。ばりばりばり、と理髪師はバリカンで俺の前髪から頭頂部までを豪快に刈っていった。あとに残されたのは一文字のハゲ。そのハゲはさながら、海を割ったというモーゼの逸話の映像を再現したかのようであった。
「ちょっと待って」
 女性はバリカンを持つ手を止めた。
 これはツーブロではない。どちらかと言えば落ち武者だ。こんな髪型で今からデートに行けるわけがない。そもそもこの女はどういう理由でこんな刈り方をしたのだ。まさか坊主にするつもりだったのか。
 俺はそのとき、はじめて頭が真っ白になるという体験をした。緊張しすぎてなにも考えられない、という状態のさらに上をいったような気分だった。あらゆる感覚ががシャットアウトされていた。それは恍惚にも似た状態だった。俺はただ頭の一文字ハゲを見ていることしかできなかった。
「どうかなさいましたか?」
 その一言で俺の呪縛は解けた。麻痺していた思考を何とか動きださせて俺は話し始めた。
「これからデートなんですよ」
「ええ」
「さすがに坊主はまずいじゃないですか」
「そうですか?」
「そうですよ」
 坊主が好きな女性などこの世に存在するわけがない。
「ちょ、坊主はやめてもらっていいですか?」
「わかりました」
「あぁ、でもなあ」
 この状態からどう軌道修正すればいいというのだろうか。基本的にどの髪型も上は絶対に残してある。先ほど頭にあったツーブロでも上はちゃんと残してあるものだ。
 しかし坊主にするということを受け入れるわけにはいかない。俺には今日という日に真理の機嫌を損ねるわけにはいかない絶対的な理由が存在するのである。
 二週間ほど前、俺は真理と喧嘩していた。喧嘩のきっかけはサイゼリヤだった。
 ここで誤解のないように言っておくが、俺自身はサイゼリヤに悪い印象を持っていない。子どものころからずっとお世話になっていて、安い値段でおいしい料理が食べられるということで重宝していた。サイゼリヤにはたとえデートでなくとも行きたいものだ。
 サイゼリヤは悪くない。あくまで喧嘩の原因は俺にあったのだ。
 その日は土曜日で、俺は彼女と美術館へ行った。別に俺は絵に造詣があるわけでもなく、審美眼というものも持ち合わせていない。ただデートで美術館に行けば彼女を喜ばせることができるであろうと思って連れて行ったまでである。
 それでも美術館めぐりは楽しかった。特に印象深かったのはモネの「水蓮」だった。自分の心象をそのまま絵に投影したかのようなその絵は、俺に憧憬の念を起こさせしめた。手に取ってみたいほどきれいなのに決してそれができない、という儚さもまた俺を感動させた。
 俺は真理にもそのことを伝えてみたが、真理は別段感嘆した様子もなかった。おそらくあの絵は真理のお気に入りではなかったのだろう。真理はどちらかといえばピカソなどのパワフルな絵が好みだろうから。
 そうして二人で美術館を楽しんだあと、俺は食事をどうしようかと考えた。
 お店の予約などしていなかった。ここ最近お金を使いすぎていたのもあって高いお店で食事をしたくなかった。なんならこのまま外食などせずそのまま別れてしまいたいくらいだった。だがさすがにそれは寂しいと思った。せっかくのデートなのだからせめて真理と食事を楽しむことくらいはしたかった。そこで俺はふと頭に浮かんだサイゼリヤに行くことを思いついた。
 俺は真理にそのことを話した。そのときは真理も特別反対したりはしなかった。俺はそれを賛成だとみなしてサイゼリヤに入った。
 サイゼリヤでおいしい食事を安い値段で済ませられたことで俺は満足し、かつ安堵していた。これからは節約しなければ、などと考えてもいた。真理が変に静かなことなど気づきもしなかった。
 サイゼリヤを出てすぐ、真理の口から言葉が出た。
「なんでサイゼなの?」
 その声に込められた、とげとげしい響きに俺は気づかないわけにはいかなかった。だがその時はなぜ真理が怒っているのかわからなかった。
「なんかまずかった?」
 俺は努めて冷静に聞き返した。
「私なんてサイゼで十分だと思ってる?」
 真理は俺の問いには答えず、逆に聞き返してきた。
「いや、十分なんてそんなことは思ってないけど」
「じゃあなんでサイゼなの?」
 俺は真理にいらつき始めていた。真理はサイゼリヤをさも悪い店かのように言うが、何も悪いところなどなにもなかったはずだ。それにそんなにサイゼリヤが嫌なら、入る前に嫌だとか言うべきではないか? 何も言わないで食事をしておいて、出てから文句を言うのは筋違いではないか?
 それもまだ料理がまずかったという文句ならわかる。しかしサイゼリヤに連れて行った俺が悪いというような言い方はひどいではないか。気軽に食事を楽しみたくて入っただけだというのに、まるで手抜きをしたみたいに言われるのは心外だった。
 俺は何か言い返してやりたくなった。しかしやめた。せっかくの楽しかった一日を喧嘩で終わらせたくなかった。それでなんとか仲直りしたくて俺は笑みを浮かべてみた。
「いや、実は最近厳しくて。だから少しでも節約したくてさ」
「だったらなんで美術館なんて行けたの? お金ないなら公園デートとかでもよかったんじゃないの?」
「それは、君が喜ぶと思って」
「節約とか言って、私にお金を使うのが嫌になったんでしょ」
「違うよ」
「もういい。帰る」
 真理は俺の言葉を遮って言った。それから俺を置いて歩き始めてしまう。俺は慌てて真理を追いかけた。俺は手を伸ばして真理の手を取ろうとした。
「触んないで!」
 真理のあまりの剣幕に思わず俺は手を止めてしまった。その隙に真理はどんどんと歩き去って行ってしまった。俺はそれ以上、真理を追いかけることもできなくなってしまい、その場に立ち尽くしてしまった。そのあとは結局独りで家に帰った。
 それから真理とのやりとりが怪しくなってきた。こちらが謝罪しても無視される。そのほか、いろいろとメッセージを送ってみてもやはり無視されるか、一言しか返ってこない。真理が怒っているのは明らかだった。
 それでも俺は何度も謝罪して、ついにもう気にしてないという言葉を真理から引き出した。それからどうにかしてようやく今日のデートまでもってこれたのである。
 今日のデートではちゃんといいお店も予約してある。真理が喜ぶよう、なるべく高い店を予約した。今日のデートで手を抜くつもりはない。
 まだ真理とは温かみのあるやりとりができていない。それが別れの予兆であることには俺も気づいていた。だからこそ、一つのミスも許されないのだ。ほんの少しでも隙を見せたならば、真理は別れを切り出してくるだろう。
 読者諸賢にも俺が坊主を受け入れられない理由が分かったと思う。坊主頭でデートに行ったりしたら、おしゃれをさぼったとみなされて捨てられてしまうかもしれないというわけだ。それは避けなければならない。
 ここに来るまでは完ぺきだったのだ。ここで今さら諦めるわけにはいかない。
 この理髪師だってプロだ。もしかしたら俺を落ち武者からイケメンへと変身させる方法を知っているかもしれない。あるとは思えないが、そうだと信じたい。
「すいません、ほんとに今、まずいんですよ。最近彼女とうまくいってなくて。だから少しでも彼女に見直してもらえるような髪型にしてほしいんです。坊主以外でなんとかお願いできませんか?」
 俺は鏡越しに理髪師の目を見て懇願した。
「わかりました、やってみます」
「お願いします。一応デートは今日なんですけど、時間には余裕をもたせてあるんで、少し時間かかっちゃっても平気なんで」
 理髪師はうなずくと、動き始めた。手際よく俺の髪にはさみを入れていく。手慣れた様子で俺を髪をまとめ、形を整えていく。
 そしてやがて出来上がったのは立派なちょんまげだった。
「どうですか」
 俺はその立派なちょんまげに目を奪われた。


「どうしたの、その髪型!」
 真理は驚愕して尋ねた。
「理髪師の人にやられた」
「いや、でもなんでそうなるの?」
 真理は怪訝な目で俺のちょんまげを見ている。俺は嫌な汗が出てくるのを感じた。
「実は理髪師の人がミスして—―」
「ミスだかなんだか知らないけど、そんな頭したやつと隣に並んで歩けるわけないでしょ」
「ごめん」
「頭おかしいんじゃないの? もうあんたにはうんざり。ねえ、前から言おうと思ってたんだけど」
「まって」
「別れよう、わたしたち」
「まって、今日はほんとにごめん」
「いや、今日のことだけじゃないって。デートでサイゼリヤには連れてくし、センスおかしいし。もう無理だから。じゃあね」
 

 ちょんまげにしたら間違いなくこうなるだろう。
「ちょんまげはまずいですね」
「それだとあとは坊主しかないんですけど・・・・・・」
「も、もう坊主でいいです。今日のデートはやめにするんで」
 今日は具合が悪いことにしてデートをやめにしよう。そして髪が生えた頃に再びデートをするのだ。それしかない。
「デート、やめてしまうんですか?」
 お前のせいだろ、とは言えない。なにも考えずにおまかせなどと言った俺も悪かったのだ。おまかせで坊主を選択してしまうセンスは理解できないが。
「はい」
「坊主はだめなんですね」
 理髪師は少し落ち込んだ様子で言った。
「はい。でも今日のところは坊主にしてください。できればなるべく髪を残す形で」
「わかりました」
 理髪師は俺の髪をバリカンで刈り始めた。髪の毛の房が肩へ落ち、そこから滑り落ちて床に落ちていく。俺の貴重な髪の毛。もしかしたらツーブロックにしたり、ワックスをつけたりできたかもしれないのに。しかしそれはまた次回だ。生えてきたときにまたお願いしよう。
「なんで坊主にしようと思ったんですか?」
 俺は尋ねた。その問いに責める気持ちがなかった、とは言い切れない。ただ純粋に知りたいという思いがあったのは確かだ。なぜこの理髪師がおまかせで坊主を選択したのかを。
「坊主ってダサいってよく言われますけど、ファッションとして採用している人もいるんですよ、ごく少数ですが」
「でも少数、ですよね?」
「はい。ですが一方で人を選ばない髪型とも言えます。顔の形やその日の気候などの影響をほとんど受けませんし、悪い印象を持たれることもほとんどありません」
 それに、と理髪師は続けた。
「坊主だからってだけで振るような女性はやめておいたほうがいいと思います」
「なんでですか?」
「だってその人、髪型で人を判断してるってことじゃないですか。髪型を理由に人を嫌いになるのっていいことだとは思えないんです。それっておしゃれに気を遣ってるっていうのとはまた別問題だって気がしますし」
 確かに髪型ですべてが決まるというものではない。確かにツーブロックにすれば己を強く見せることはできるだろう。しかしそれで筋肉が増えるわけではないし、自身が増すわけでもない。しかも己の内面といったようなものは深く付き合い始めた女性にはたちまち見破られてしまう。中身が小物だとばれてしまったらどちらにしろ振られてしまうだろう。
「髪型を理由に振る人って、たぶん振る口実が欲しいだけだと思うんです」
「いや、さすがにそんなことないと思いますよ。実際坊主ってダサいし。生理的に無理な人もいるんじゃないですかね」
 そう言いつつも、僕は学生時代のことを思い出していた。当時、野球部はみんな強制的に坊主にされていた。しかし野球部を嫌っていた女子なんていなかったように思う。あるいは俺が知らなかっただけかもしれないが。それでも俺は野球部員を嫌いではなかった。坊主頭を見ても別にダサいとかキモイなどと思ったりしたことは一度もない。
「ダサくないですよ。かっこいいですよ」
「いやあ、そうですかね」
「本当です。見てください」
 理髪師は俺に髪型を見るよう促す。鏡にはきれいに刈られた頭が写っていた。ふさふさの髪に隠れてこれまで見えなかった頭の形が、坊主になったことではっきりと見て取れた。
「かっこよくはないと思いますが」
「私はお客様の事、かっこいいと思います」
 理髪師は唐突にメモを取り出すとそこにボールペンで何かを書いた。そしてメモ紙を破り取った。
 理髪師は俺の手に触れた。すべすべしていて細い指だった。理髪師はその指を器用に俺の指にからめて、俺の手を開いた。理髪師は俺の手に紙を握らせると手を放した。
「私の連絡先です」
 これがどういうことなのか、俺は考えようとした。だが考える間でもなかった。連絡先を教える理由がクレーム対応のためなどとは考えられない。彼女のいる男に連絡先を渡すなんて正気じゃない。
「いや待ってください、これって」
「シャンプーしますから頭を洗面台の上にどうぞ」
 俺はそれ以上何も言わなかった。連絡先を返そうにも向こうが受け取ってくれそうな気配はなかった。
 俺は頭を洗面台の上にさげた。理髪師はあの細い指で俺の頭の上でシャンプーの泡を立て、もみほぐすように洗い始めた。



 デート当日、俺は駅前のベンチにひとり腰かけて待っていた。するとやがて茶色のショートヘアをした彼女の姿が視界に入った。
 奈央とは今日、初めてデートに行くことになる。結局俺は床屋で奈央から受け取ったあの連絡先を使ってしまったことになる。
 だが浮気ではない。連絡を取るより前、もっといえば床屋を出て坊主頭でデートを行ったときに真理とは別れたわけだ。
 俺は真理との関係をはっきりさせたかった。真理が今でもまだ俺のことを好きなのか、それとも別れを切り出したくて髪型などの口実を探しているのか。
 もしかしたら真理はまだ俺に好意があったのかもしれないのに、それが坊主頭を見て一気に萎んでしまったのかもしれない。だがともあれ、真理は出会ったその場で俺に別れを切り出してきた。
 振られた直後はさすがに動揺が収まらず、誰とも連絡を取る気になれなかった。実に一か月もの間、あの連絡先は放置していた。
 しかし時間が経って動揺が収まってくるといつしか悲しみだけでなく誰でもいいから人と話したいという欲求にかられるようになった。そして俺は寂しさに耐えかねて、ついに奈央にメッセージを送ってしまった。初めから彼氏彼女の関係になった、というわけではない。ただ何度かやりとりを重ねるうちに奈央のこともいろいろと分かってきた。
 奈央は坊主が好きなどと変なところのある女性ではあるものの決して悪い人ではない。そしてかわいいところもあるということを知ってから俺は奈央を異性として意識し始めた。そして俺のほうから告白して付き合うことになったというわけだった。
 俺は奈央の細い指に自分の指をからめて手を握った。奈央の顔をちらりと見ると、奈央は恥ずかしそうにほほえんでいた。奈央はこんな顔もできるのだな、と俺は新しい発見をした思いになった。
 そこから先のことは語らない。俺の幸せアツアツのデート話など読者諸賢には興味のない話であろうからだ。そういうわけで、これにてサラバ。

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