見出し画像

「しょぼい起業メソッド」が失敗した理由と、『生活の資本化』に替わる概念について。健康になろう!って話。

スクリーンショット 2020-12-08 16.12.52

あの「ドワンゴのえらい人」も大絶賛!!!

プロ奢サロンって、一体なんなんだ!?!?

スクリーンショット 2020-12-08 16.16.10

「しょぼい起業メソッド」の経営者も絶賛!!!

読む価値あり!


まえがき

友人の「えらいてんちょう(以下、えらてん)」が数年前から提唱している「しょぼい起業」というメソッドがある。これは主に「あたらしく店舗を借りて店をやる」のではなく、家を店にして、店に住む。そうすれば店は潰れないし、続けることができるはずだ、というもので、実際えらてん本人が立ち上げた「イベントバー エデン本店」自体は、今なお存続している。すごいことだ。コロナで大打撃な業態なのに。

今回は、自身も「しょぼい店舗経営者」であり、かつ「ほとんど利益をあげることなく」「それでも丸1年以上、店舗を存続させてきた」人間として、「なぜ儲からない店を存続できたのか」、あるいは「なぜ『しょぼい起業フォロワーたち』の店はことごとく閉店していったのか」について、雑に書いてみることにする。


そもそも「生活の資本化」には無理がある。

「しょぼい起業」を支えるのは「固定費の徹底した削減」であったわけだが、中でも最重要項目なのは「生活の資本化」という概念だと思っている。

簡単にいうと、「生活している中で、『店をやらなくてもやっていたこと』を商品にしましょう」ということなのだが、その例としてえらてんは「店に住む(住居は生活)」「いらなくなった服を売る」「つくりすぎたご飯を売る」を挙げている。

が、ここにまず決定的な落とし穴がある。実際、潰れていった店舗のほとんどは「固定費を下げるだけ」で、生活の資本化は為していない。店舗に住み続けるのはどうやら無理があるようで、実際えらてん自身もぼくと出会った頃には「店に住む」ことはしていなかった(売り上げがあるから必要がなくなったのだろうけど)。

「生活の資本化」は正しいけれど。

けれども、そもそも「生活の資本化」を達成するには、生活をしなければならない果たして「しょぼい起業メソッド経営者」は、そもそも生活ができているだろうか?生活ができていたのだとしたら、今頃「三井住友」とかに就職して、その後にやっと異常者としてパージされ、そこではじめて下界に降りてくるはずではないのだろうか?そこに資本化する生活はあるのか

思うに、「生活を節制する」ことと、「生活の資本化」という概念は相反している。生活を節制すればするだけ、売り物が減るから。考えてみれば当たり前なのだけど、実際いま創始者のえらてんには「謎のゲーム実況」くらいしか売り物がない。いくら商人としての能力が高くとも、仕入れがなければ売るものはなし、生活を資本化するにも、そもそも生活が破滅しているのだから。

いくら固定費が低くても。

「売り上げがない」と厳しい。それは経理上の問題ではなく、そもそも経営者として「果たして、わざわざ店を続ける必要があるのだろうか?」という話になってくる。もちろん「生活の資本化」として、店に住む場合は別なのだけれど(家に売り上げはいらない)。

いくら固定費が低いからといって、「儲からない店を毎日開ける」のは苦痛である。経営は数字だが、経営者は人間であるから。バランスシートに苦痛は考慮されないが、経営者には重くのしかかる。よって、しょぼい起業メソッド店舗は、ほとんどが「経営赤字」以外の理由で閉店しているように感じられる。持続できるが、したくない。という風に。

「生活の資本化」に替わる概念がある。

それは「ゴミの資本化」である。意味することはほぼ同じだけれど、実際これをぼくはやっている。店舗については「生活」ではなく「ゴミ」を売っている。なにせ、ぼく自身は年に数回しか顔を出さないし(その場合も客としてテキトーに遊びにいくだけ)、ぼく自身は何もやっていない。

ただ肝になっているのは、「シェアハウス」という自走型のビジネスから出ている「ゴミ」を、そのまま「店」という資本に変換している点だ。ぼくはまず「シェアハウス」を作った。とは言っても、「住みたいやつ〜」と投げかけて、適当に選んだだけ。あとは自治を任せ、「自治者が金を持って飛んでも問題がないシステム」のもとで、管理者感を醸し出すだけのことだった。

そのシェアハウスの一階部分を、「店」にした。ぼくの生活ではなく、「そもそもシェアハウスに住めるメンタリティの住民たち」の「二階に存在すること」を商品にした。ここもある種イベントバーのような業態をとっているから、やることはない。ただ暇なとき一階に降りると、なにかしらの祭りが行われているだけである。

そこでは、実際「ゴミ」しか売らない。プロ奢ラレヤーである僕の「生活」はあまりに広範囲で、この文章もその一部であることはもちろんのこと、「謎に欲しいものリストから飲食物が届く」だとか、「祭りをつくってしまう」だとか、あらゆる「生活」がある。そして、生活すればするだけ出てくるのが「ゴミ」である。それを売るのだ。

これなら、売り上げがカスであっても「気づいたら丸1年以上も店舗経営をしていたらしい」ということにもなる。なぜなら、ただ「ゴミをゴミ捨て場に捨てる」ということをしていただけであるから。多くの場合、そこに負荷はなく(生活がない人は例外であるが)、これまで食ったパンの枚数を覚えていないことと同じくして、「ゴミをどれだけ捨ててきたか」に一喜一憂することもない。よって、「経営を続けるモチベーション」なるものが問題になることもない。売り上げはなくてもいい。

ゴミを売るには?

「ゴミの資本化」を続けるにはどうしたらいいだろうか?それは商売であるから、当然「仕入れ」が重要である。仕入れなれば、何も始まらない。ぼく自身の「生活」では、ついつい「ビザンツ帝国の1000年存続の歴史」みたいな本を「仕入れて」きて、それをついつい「加工して売りたくなってしまう」ようなところがあるので、こうしてついつい「キーボードを楽器のように打って」しまう。これも「仕入れ」が生んだ「ゴミの資本化」である。

問いに対する答えだが、それはもう「健康になる」しかない。しょぼい起業に失敗(と呼ぶのは単に閉店のことであり、主観的なアレではない)してきた経営者たちに不足しているのは、経営センスでもなんでもなく、健康である。

「健康である」ということは、それだけ「生活がある」ということだ。健康な人は、きっと外に出て散歩するだろうし、学校に通ったり、会社に努めたり、好きな本を読んだり、また、ゲームを楽しんだりするだろうから。これ自体が「仕入れ」であり、健康であることが「原資」であるから。

生活をすれば、ゴミは出る。ゴミの売り方を見つけさえすれば、ゴミは資本化される。そしてそこでやっと間接的に、「生活の資本化」も達成されることになる。生活を売ろうってのに、健康でない、ってのは意味不明だ。たくさんゴミを出すためにも、生活をしないとならない。その生活は、健康に支えられる。健康とは、たくさんゴミを出すことだ。そして、そこで出たゴミを畑に持っていき、肥料とすることだから。


(噂によると、そんな「健康になりたい人」にちょうどいいアクティブ200人越えの自走型オンラインサロンが存在するらしい。健康RTA?なんなんだそれは!気になる!要チェックだ!!)


というゴミを捨てていたら、なんと「しょぼい起業で生きていく 持続発展編」が予約開始しているではないか!なんという偶然!偶然すぎる!果たして、「しょぼい起業で生きていく」の続編ともなる今作では、なにが語られるのか!こんな本がでるなんて全然知らなかった!そのために文章を書いていたわけでは決してないんだからね!

こちらも合わせてどうぞ。


__________________


今月の秘密結社サロンはこちらから

ここから先は

826字

おすしたべる