『感動の資本論』 ~これから先、なにを積み上げて生きていけばええねん問題について~
「資本論」なんてガワを借りると、それだけではなしが大袈裟に感じられていいね。感動的だ。じっさいは、そんなに資本論かんけいない。マルクスマニアは帰って。呼んどいてすまんけど。
ちょいと、ここ数ヶ月で考え続けてきたことがまとまりを持ちそうだったんで、思い切ってひとつのエントリで、書きたいだけ書いてみることにした。
はなしは簡潔で、ここで納得するなら読む必要はない。令和において、個人的な資本として積み上げられるものって、もはや感動しかないよね、ということだ。
つまり言っちゃえば、みんなが「積み上がる」と思ってきたもの、スキルやら、経歴みたいなものですら、今後はかなり危うい。
積み上げても、それが必要なシチュエーションで生きるとはかぎらないし、そもそも想定した未来のシチュエーションがどれだけ覆らないか、というのも分からない。
それなりの頭があるひとなら、何年も前から気付いてたとはおもうけど。これがかなり現実味をおびてきた。
そしてこのはなしは、感動がいかに積み上げられていくか、あるいは、そもそも感動を積み上げるとは、どういうことか、そして、感動が積み上がると、一体どんな効用があるのか、という話でもある。
最近、月額マガジンとかでずっと考えてきたことを「マガジン読まないひと向け」にまとめてみた感じです。
マガジン購読者はべつに読む必要なさげですが、物好きやら、支援したいひとはどうぞ。
まあ、まずは目次でも食っていけば?
感動とは、なにか?
感動とは、印象的な物語の再発見だ。
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