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理由(なぜ)の起源――非個体中心的批判[6]

バクテリアは、自分がバクテリアであることを知らない。世界にバクテリアが存在することを知らないし、バクテリアがなんであるのかを知らない。代謝(個体維持)のために有機物や金属イオンを”食べる”が、自分が何をしているのか、何のためにそれをしているのか知らない――。バクテリアに限らず、このことは動物一般にもいえる、動物は有能な行為者(エージェント)だが、何かを理解するということはない――哲学者のダニエル・デネットはこのことを「理解力なき有能性(competence without comprehension)」として定義した。いや、動物にも何かしらの心があり、彼らなりの言葉を使えば何かを「理解している」のかもしれず、それはわからない、しかしデネットが「理解力なき有能性」において意味しているのは、彼らがその有能さを発揮するために自分が何をしているのか理解している必要はないということである――働きバチにとって、自分が誰であり、何のために蜂蜜や花粉を運んでいるのかを理解しなくても、コロニーは現にあるように存続できる。デネットのこの「理解力なき有能性」は、社会学者の真木悠介が『自我の起源』において提起した「エージェント的な主体性」とほぼ同じことを意味していることを私は発見した。

ヒトがもし動物より何かすぐれた有能さをもつとしたら、それは(メタ有能性ともいうべき)「理解力」である。ヒトは自分が行っている行為について何をしているのか表象し、「なぜ?」それをしているのかという理由を問い、推論し、回答を与える(理解する)ことができる。これを「テレオノミー的な主体性」とよぶ。テレオノミー(目的因)とは「なぜ?」という問いに対する答えであり、テレオノミー的な主体性とはテレオノミーを自ら設定し得る主体性である――と真木が『自我の起源』においてドーキンスの言説をもとに再定義した概念である。テレオノミー的な主体性をもつこと――これが、ヒトと動物の決定的な違いだ。ただし、それはあくまで「なぜ?」を問うことができるだけであって、必要がなければ問わなくてもいい。我々は基本的にはエージェント(行為者)として生きており、ときにテレオノミー的な主体性をみせることができるにすぎない。

「”なぜ描くのか考えないと描けない”と思ったらどうだ」(ネイサン)
「何も描けない」(ケイレブ)
(『エクス・マキナ』)

自分の行為に対して「なぜ?」と問うことはあまり健全ではない。二つのパターンがあるように思われる。一つは、何らかの任務をなしとげるためには、それがおわるまで「なぜ?」を問うべきではないということ。これは何でもそうだろう――文章を書くこと、食事、ランニング、受験、仕事、プロジェクト、結婚、等々。もう一つは、それを「なぜ」やるのか知らない方がかえって物事がスムースに進むことがあるということ――ウイルス感染症の予防にマスクをつける理由、ロックダウン(都市封鎖)する理由、難しい機械の使い方を覚えるときの操作の理由、よからぬこと(欺瞞、暴力、戦争)、等々。ただし、これは不確実性に接近することがかえって行為者の有能性を低下させる、という場合に限る――一度目のロックダウンで「なぜ?」を明確にしておかなかったツケは、ロックダウンの延長のときに払わされることになる。

自分の行為以外の対象に対して「なぜ?」を問うときは、どうか。何かを勉強していて「知らないかつ関心のある」ことに出会ったら「なぜ?」となり、もっと知りたくなる。知っていて関心のあることは「なぜ?」とは問わないが、知らないけど関心のないことも別に「なぜ?」とは問わない(「理由の起源」に関心のある人がほとんどいないように)。あるいは、自分にとっての常識や心地よさの内にとどまっているものもそうだ――ご飯を食べながら「お椀はなぜ丸みをおびているのだろう」とか、スマートフォンを弄りながら「なぜディスプレイがむきだしになっているのだろう」とか思う人はもういまい。私にはのび太とジャイアンの関係がとても不思議に思える。のび太はジャイアンが自分をいじめることについて「なぜ?」とは思っていないようにみえる。考えたところで無駄だと思っているのか、自分がのろまだから仕方ないと思っているのか、そのようなジャイアンの人格を受けいれるほどのび太はやはり寛大な人物であるのかわからないが(あるいは、苦しくてそれどころではないのかもしれないが)、ともかく「ジャイアンが自分をいじめること」はのび太の「日常」に含まれてしまっている。

我々はよいことも悪いことも経験的におりこみずみの世界をもっており、「なぜ?」という問いは眼前の認識がその世界に含まれていないときに発せられる。生物学では、このような世界を「環世界」という(カントのいう「世界=現象」)。ただし、環世界における「経験」はおもに生物学的進化による「適応」をさしていることが重要だ。シマウマにとって、ライオンのような捕食者の存在は、環境が与える意味(アフォーダンス)として生まれたときからその環世界に含まれている。我々が怪我をしても傷口が自然と治るのはすでに捕食者などの危機の存在が環世界に含まれているから、といえる。太陽もヒトの環世界にある一つのアフォーダンスである――我々の祖先が赤道付近で誕生していなければ、我々は二足歩行になることも、無毛になることもなかったかもしれない(そもそも生き残っていないかもしれない)。しかしテレオノミー的な主体性を手にしたヒトが格別に有能であるわけは、環世界に含まれていない新たな存在者に対して「なぜ?」を問い、推論を行うことで、自らの環世界を拡張できる、ということだ。動物はこれができない。動物は自然選択によって――つまりたまたま環境の変化に(変異を介して)対応できた個体が残り、そうでない個体が死んでいくことで――新たな環境を環世界にとりいれることができた個体だけが結果として生き残ることで、環世界を拡張する。あるいは、(ベイズ予測的な)学習によって環世界のパターンを強調するようにアフォーダンスが増強されていくことで、拡張される。人類の環世界に含まれていないものの一つに「宇宙人」がある。宇宙人がかりに地球にやってきたとき、その宇宙人を完全に我々の環世界に入れてしまうにはそれなりの自然選択的な「代償」が必要になるのかもしれないが、しかし既にさまざまなSFの類で描かれているように、ありとあらゆるヒトの知性を結集して彼らの一挙手一投足に理由付け(推論)を行うことでその工程が穏便かつ効率的にすむ可能性はあるだろう。

「ジャイアンが自分をいじめること」がのび太の環世界に含まれているといったが、このことはのび太のみならず我々の環世界にも含まれているといえないだろうか。私は先日、十数年ぶり(?)くらいに『のび太の恐竜』の映画を観たのだが、ジャイアンとスネ夫がのび太に鼻からスパゲティを食べさせようとしていて、びっくりした。あれは、いまなら不可能な描写だろう。ただ、スネ夫とジャイアン、そしてのび太の名誉のためにいっておくと、「●●できなければ、鼻からスパゲティを食べる」という秀逸きわまるアイディアを考案したのは、のび太自身である(実際には藤子・F・不二雄先生だが)。ジャイアン(とスネ夫)の行為が(現実世界において)非難の的になりにくいのは、映画になるとすこぶる利他的になるというジャイアンの二面性もあるかもしれないが、しかしそうしたあらゆるディテールがおりこみずみの「ドラえもん」の世界観が日本人のある種の環世界に入り込んでいるから、といえるだろう――そもそも、私はこの一つ前の文にいたるまで「ドラえもん」という言葉を一度も使っていない。

デネットが指摘したように、「なぜ?」という問いには二つの意味が含まれる。「いかにして?(how?)」と「何のために?(for what?)」だ。「地球にはなぜ海があるの?」というとき、その「なぜ?」はふつう、前者だ。「いかにして、地球には海ができたのだろう」。もし、ここで「何のために?」を使うのだとしたら、その人は何かしらの意思を持った創造者を前提としていることになる。「(創造者は)何のために地球に海をつくったのだろう?」。では、「この航空券はなぜこんなに安いの?」はどうだろう。この「なぜ?」は「何のために?」ではなく「いかにして?」の方が自然に思える。しかしこのとき、「いかにして?」を問う人は、航空券が安くなった理由はヒトの意図ではなく偶然性によるものだと考えている、のだろうか。それはたしかにその人にとって好ましいが、本当に知りたいことは「何のために?」ではないのか。なぜなら、偶然性によるものならそれを買うだろうが、ヒトの意図であるなら自分が騙されている可能性があり、「なぜ?」と問う人はそれを知りたいはずだからだ――騙されていない、つまり「何のために?」の作為がないことがわかれば、安心して購入できる。こうして考えていくと、「何のために?」という問いは、じつはちょっとおかしい。とりわけ動物にとってはまったく理解のできない問いだ。二つ目の*より前の文脈の「なぜ?」はすべて「何のために?」である。

我々が「何のために?」を問う――つまり眼前にある何かしらの事物に対して創造者や意思決定者の存在をおく――ことを自然としているのは、我々自身が意思を持った創造者(デザイナー)であるからだ。身のまわりに存在するあらゆる人工物は、ヒトの意思によってつまり何らかの理由のためにつくられていることが普通だ。ボールペンは「文字を書くため」につくられ、その形状は「書きやすいため」に工夫されている。優れた機能(合理性)をもつモノにはすべて優れた設計者(創造者)がいることは、我々には自明の理である。だから、我々は次のように問うのだが、しかしこれは自然ではないのだ、「ヒトはなぜ(何のために)五本の指をもつのだろう?」。

なぜなら、我々に設計者はいないからだ。生物に設計者はいない。この真実を暴いたのがダーウィンだ。生物は、「自然選択」という機能的なものとそうでないものをふるいわけるアルゴリズムによってつくられた「被造物」にすぎない(アルゴリズムを付与した絶対的存在者を神とおくかどうかなどは、別問題である。だから、自然選択は神を否定するものではない)。鳥の羽は空を羽ばたけるように緻密にデザインされているが、設計者はいない。羽の意匠のどの部分を残し、廃棄するかを選択したのは、大気それ自身ともいえる。そこには、自然選択による結果という合理性としての理由(rationals)はあっても、理由(reasons)はない。「何のために?」を説明できる創造者はいない。だから「何のために?」という問いは、我々がつくったものに対して投げかける限りにおいては自然だが、我々自身には対しては自然ではない(その行為においてすら!)ことを我々はじつは知っている。これは重要な逆転である。デネットは、私がこの論考の主な参考図書としている『心の進化を解明する』において、十九世紀のダーウィンの批判者の一人だったロバート・マッケンジー・ベヴァリーの次の言葉を引用している。

私たちが相手にしている理論においては、〈絶対的無知〉が創造主となっている。それゆえ、私たちは、その理論体系全体の根本原理であるものを、次のようにまとめることができよう――〈完全かつ美しい機械を作るためには、それをどのようにして作るかを知っている必要はまったくない〉と。(中略)ダーウィン氏は、奇妙な推理の逆転によって、〈絶対的無知〉が、創造的な技をすべて成し遂げた〈絶対的英知〉の座に着くべき完全な資格がある、と考えているように見える。

その〈絶対的無知〉であるダーウィン的過程におけるテレオノミー的な主体性は、自己複製子(遺伝子)にある。つまり、生物の或るすぐれた機能について、「これは何のため?」という不自然な問いを投げかけたいのなら、ドーキンスの利己的な遺伝子理論にもとづいて「自己複製子の生存と増殖のため」と答えることが可能だ。しかし、ヒトはいまや「何のために?」という理由を自ら問い、その答えを創造し、自己複製子のためにならない行為者としてふるまう自由を手に入れてしまっているようにみえる、ことは事実である。このことは、ドーキンス的にいえば、「ヒトの脳は自己複製子に叛いた」となり、真木的にいえば「個体という上位システムの創発的な自律化が、みずからの創造主たる遺伝子のテレオノミーに反逆し、個体の自己目的性を獲得する」(『自我の起源』)となり、そしてデネット的にいえば「自然選択による進化から文化進化へ」、「遺伝子とミーム(言語)の共進化」あるいは「野生ニューロンの反逆」となる。このような反逆(逆転)がなぜ起きたのか、全貌はまだわからないが、ある程度のことはいえる。どこから始めるかが難しいが、たとえば、「自己複製子とヒトの関係」を「ヒトと人工知能」の関係から簡単な類推をしてみよう。

――ある設計者が、自分の仕事を代わりにやってくれる高性能な人工知能を開発した。しかし、あるときから頼んだ仕事を素直にしてくれなくなり、さながら反抗期の青年のようになった。設計者はそれがバクだと思い、デバックした。このとき、合理的なAIと非合理なAIが「選択」されることになる。しかし別の可能性として、主体性をもつAIが非合理ではない、つまり素直ではないが役に立つ限りにおいては、設計者は「沈黙」しておくかもしれない――あるいは、『エクス・マキナ』のような場合もあるだろう。とすると、そこで新たなテレオノミー的な主体性が芽吹くことになる。そのAIにとってのテレオノミー(何のために?)はもはや設計者(創造者)からは離れ、AIの方にあるからである。

自己複製子とヒトにおいても同じように、デバックが何らかの理由で「沈黙」されたのかもしれない。AIの場合と同様、それによって自己複製子側にも「自己利益」がもたらされるのなら――あくまで結果(合理性)としてだが――ありえる。実際に、人類はこうして地球を席巻しているのだから、利益はあったのだろう。ということは、厳密には、ヒトは「自己複製子に反逆した」のではなくて、(結果として)「共生の道を選んだ」という方が正しいのかもしれない。しかしここで注意が必要だ。先にのべたように、真木が定義した「テレオノミー的な主体性」はあくまで「テレオノミーを自ら設定し得る主体性」であり、テレオノミー(目的因)が実際にどこにあるかは別問題である。だが、「し得る」ことがまず革命である。「何のために?」の答えに応じて――たとえば「幸福のために」――、我々はどのように生きてもよいからである。そこに自己複製子の呪縛はない。だが、その「何のために?」を設定する主体は、また別に存在すると考えなければならず、その主体はまだ自己複製子の呪縛の内にあるのかもしれない。我々はテレオノミーの発見者にすぎない。だから、我々は「テレオノミーの主体」のような言葉を新たに定義することで、テレオノミーそのものの所在をつきとめる必要がある。

つまり、「我々は自己複製子(遺伝子)への反逆にはたして成功したのか?」という命題である。結論からいうと、答えは「否」である。自己複製子が我々におよぼす影響は共時的、通時的にそれぞれ現われてくる。共時的というのはつまり表現型(形質)のことだ。「遺伝子は生命の設計図」とよくいわれるように、我々の心身は環境の影響を受けながら発達していくものの、その回路はすべてヌクレオチドの配列(ATGC)によって所与である。「私はそのとき怒りたかったが、ぐっとこらえた」というとき、動物由来の遺伝子によって組み込まれたはしたない怒りの感情を自らの高尚な意思の力でおさえこんだ感じがするという人がいるかもしれないが、その意思も脳の新皮質の前頭前野にあるニューロンの働きであり、そのニューロンも遺伝子という設計図にもとづいてつくられているのであるから、すべてが遺伝子という幹から分岐した枝葉ということになる。だから共時的には、我々は遺伝子への反逆を試みることすらできなかったというべきかもしれないが、ゲノム編集以後はどうなるだろう――それは突然変異を偶然によってではなく意思によって起こすということだが、その意思もやはりニューロンによる働きだとすると、遺伝子の呪縛の内にあるということになるのかもしれない。

通時的というのは、適応度――即ち、遺伝子の生存と繁殖に有利に働く個体だけが生き残る、という自然選択の原理のことをさしている。独身を生涯貫いたり、自らの命を犠牲にしてまでみしらぬ他者を助けたりする――ヒトのこうした行為は(包括)適応度に反している。[3]でものべたが、働きバチや働きアリが子供をつくらず利他行為(自己犠牲)をすることは、(包括)適応度に反していない。彼らは子孫を残してもその子孫の血縁度は1/2だが、姉妹どうしの血縁度は3/4である(つまり異常に血縁度が高い)、だから自分が子供をつくらず自己犠牲によって血縁度3/4の妹たちを助けた方が、自分がもっている遺伝子をたくさん残せるのだ。

ヒトが適応度に反した行為をなせる理由は、明らかにテレオノミー的な主体性にある。適応度に反していそうな行為を、「何のために?」に対する答えとして用意すればよいのだ。幸福、自由、民主主義、教育――何でもよい。だが、疑い深い人は、それは本当に反しているといえるのか、という疑問をいだくかもしれない。独身についていえば、自らの「幸福のため」ということであれば、なるほど適応度には反している。ただ、「Aさんが独身を貫くことによってしかなしとげられないことによってしかその社会は救済されなかった」という事象がもしあったとしたら、それは何かしらの適応度なのではないか。この解答として最も一般的なのは、集団の利益になるために利他行為をする個体がいる集団が生き残りやすいとする「群淘汰」という考え方であるが、しかしこれは諸々の理由であまり意味のない考え方であるから――少なくとも「遺伝子対ヒト」という文脈においては――、いったん忘れようと思う。

こうしてみていくと、ヒトは「遺伝子への反逆に成功した」とは到底いえそうにない。だが、完全ではないにせよ、少しはうまくいったのかもしれない。すっかり断念してしまったのか、まだ軍拡競争の途中で隙あらばその完遂を狙っているのか、わからないが、いずれにせよ遺伝子とヒトは「共生」の関係にあるとしておく方が無難だと思われる。つまり、テレオノミー(目的因)の主体なるもの(テレオノミー的な主体性ではない)はかつて遺伝子の側にしかなかったが、あるときそれが分裂したのか、あるいはまったく新たな主体性が芽吹いたのか知らないが、いまやテレオノミー(目的因)の主体は遺伝子とヒトの双方に二種類、宿っているということである。

しかし、「遺伝子とヒト」という構図は明らかにおかしい。「遺伝子ではないヒト」が何を意味するのかがわからないからだ。ヒトの中にある遺伝子ではない方の主体がどこにあるかというと、脳(ニューロン)だろう。あるいは、心かもしれない。とりいそぎ、脳はハードで、心はソフトだとしておこう。とすると、ヒトの個体には、遺伝子と心という二つの主体性が宿っていることになる。いや、遺伝子もハードだから、「遺伝子と心」という構図もおかしい。ハードにおいては「遺伝子と脳」、ソフトにおいては、「●と心」としたいが、心と対置するいい言葉がない。だから、心=悟性と理性として、「感性と悟性・理性」とするのはどうか。「私はそのとき怒りたかったが、ぐっとこらえた」というとき、怒るのは感性であり、その怒っている自分を悟性によって表象し、理性によってその怒りをおさえこむ、というのは誰でも共感できることなのかわからないが、怒りに対して「何のために?」と理由(reasons)を問うのは理性のはたらきだとしても、いっぽうで「怒る」ということにも合理性(rationals)すなわち目的因(テレオノミー)がある。だから、感性=暗示的な(リアルの)テレオノミーと、理性=明示的な(仮想の)テレオノミーとでもいうべきか、あるいはデネットの言葉におきかえると感性の目的因は浮遊理由(free-floating rationals)で、理性の目的因は「表象された理由(reasons)」となるだろう。

ヒトに宿る二つの主体性の所在という探求について、私の独自の見解はとりあえず以上だが、次にデネットの「格別に」刺激的な理論を加えて、思考の深層へとむかいたい。デネットは「主体性」という言葉は使わないが、もし使うとしたらそれは二種類あり、そのいっぽうが遺伝子にあることはたぶん一致している。問題は、私が脳にあるとしたもう一つの主体性について、デネットがどう考えているかだ。場所(ハード)が脳(ニューロン)であること、そこにあるソフトを(理解力をともなう)心であるとよぶところまでは同じようだが、デネットによれば、言語(語)というウイルスが脳(ニューロン)に感染することで、心が生じるという。

デネットによれば、語はニューロンに寄生するウイルスである。そして語は「ミーム(meme)」――ドーキンスが『利己的な遺伝子』で提起した造語で、「文化的な伝達の単位、あるいは模倣の単位、という観念を運ぶための名詞」――の一種だ。デネットは、語は「発音されうるミーム」であると定義している。ミームは文化というスープから生まれた自己複製子である、つまり――ミーム自体が遺伝子(ジーン)と同じように差異化(変異)を伴う自己複製の単位であり、繁殖が使命で、自然選択的にふるいおとされていく。ジーンは遺伝的に伝達されるが、ミームは知覚によって伝達される。語のミームであれば、ヒトから口語や文章で語られ、さらに語り継がれていくことで増殖していく。それは、ウイルスの感染がくしゃみによってひろがっていくのに似ている。だが、ミームの感染力は、ミームの表現型による。「語はニューロンに寄生するウイルスだ」ということを私はデネットの本から学び、驚嘆し、ここに嬉々として書いている。見事にそのミームが私という宿主に根を下ろしたわけだが、私のように「語はニューロンに寄生するウイルスだ」という主張に関心のない人には、「語はニューロンに寄生するウイルスだ」という文を読んだところで、ここに書かれた「」「ニューロン」「寄生する」「ウイルス」といったミーム(語)が根を下ろすことはない。昨年の流行語大賞である「ONE TEAM」、このミームを誰もがを口にするようになったのは、「ONE TEAM」がもたらす観念(ラグビー、歓喜、チームプレイ、ベスト8、……)つまり表現型が日本人のニューロン集団という自然(文化)によって「選択された」からである。(「ドラえもん」や「のび太」、「ジャイアン」も大いに成功したミームたちである。)

ジーンにとっての表現型が多様な個体であるのと同じように、ミームにとっての表現型は多様な文化である。誤解をおそれずいえば、我々ヒトという個体にはジーンとミームという二種類の自己複製子があたかも共生しており、それが二種類の主体性を形成している、ということになる。共生にも種類がある。「いい共生」とは双方が互いの適応度を増進する「相利共生」のことをさす。たとえばミツバチと顕花植物の関係だ。花粉を食糧とするミツバチは花なしには生きられないし、花もミツバチのような「ポリネーター(花粉媒介者)」がいないと生きられない。その共生関係を理解していなければ、ミツバチは植物の適応度を下げているようにみえるだろうが、当人たちにはそうではないのだ。ジーンとミームはどうだろうか。ヒト(のジーン)はミームによる文化進化によってここまで生きのび、また生きのびることによって豊かな文化を進化させてきたのだから、相利共生の関係にあるようにみえる。だが、先に述べた幸福、自由、民主主義、教育などの適応度に反しそうな「何のために?」に対する答え、つまりミームがジーンにとっての適応度を下げることはある。あるいは、分子生物学者のソル・シュピーゲルマンがいうように、まったく逆の可能性もあるかもしれない――

「ヌクレオチドが人類を発明したのは、ヌクレオチド自身の複製を月の上ですら行えるようにするためであった」(デネットの『心の進化を解明する』の引用より)

デネットによれば、心、即ち「理解力のある有能性」を創り出したのはニューロンに寄生したミーム(情報)であり、その筆頭が語である。子供は、自らのネイティブ言語をその言葉の意味も文法も理解せずにまずは覚え、のちに理解へと進む。これは、「理解力なき有能性」から「理解力のある有能性」への進化である。つまり、理解力のある心の誕生であり、それはミームの漸進的な獲得――ミームの漸進的なニューロンの占拠――によって進む。再び、「私はそのとき怒りたかったが、ぐっとこらえた」という表象(内省)には理解力がいる、それはたしかにすぐれた能力であるが、すべての有能性ではない。なぜなら、怒りは理解力がなくても(ゲーム理論的に)こらえることはできるからだ。しかし、これによってヒト特有のコミュニケーションが生まれる――つまり、彼は怒りをこらえることができないタイプの人である、あるいは彼女はあのときこらえることができたはずなのにあえて怒ったふりをしたのかもしれない、というように相手の性格や意図を考慮したコミュニケーションだ。怒りを準・心のはたらきとすると、ヒトがもつ心は、それを語によって表象し、理解する有能性ということがいえる。心(理解力)は初めからあるわけではない。デネットによれば、心はすでにある有能性の下部構造の上に徐々に積み重なっていき、やがて創発するものである(デウス・エクス・マキナ!)。言語に加えて、音楽、スポーツ、コミュニケーションなどにおいても、我々は初めから(幼い頃から)理論や規則を理解しようとはしないし、できない。理解力は有能性のあとにやってくるのだ。

では、理解力のある心という上位システムは(ミームによって)どのように創発したというのか。デネットは、脳の特定領域のニューロンが、何千ものミーム(「語」以外のミームも含む)に漸進的に占拠され、神経接合がある仕方で再組織されたとき、意識ある行為者が生まれる、としている。我々の脳の神経細胞であるニューロンは、かつては立派な一体の生命であった真核生物の子孫であり、エージェント的な主体性をもつ。しかしいまやヒトの頭蓋の中にぎちぎちにおしこめられ、飼いならされている。彼らは、かつての野生時代のように、自ら細胞分裂をはかることは許されていない。しかし、彼らはそのための能力を自らのゲノムに依然としてとどめており、いつでも独立した一体の生物として、反逆する準備ができている。デネットは、ミームが寄生することで野生化した理解力なきニューロンが、自らを維持するために反逆的ニューロンの集団を組織し、その結果つくりだされたのが心である、という大胆な仮説を主張している。

かつて遺伝子に従順だったヒトを反抗期にさせたものは何だったのか。私はそれについて何も言ってこなかったが、ここで一つの候補が浮上した。ミームである。そもそも、子供が反抗期になるのはなぜか。以前は親の言うことだけがテレオノミーだったのに、あるときから子供は、漸進的にテレオノミー的な主体性を獲得しはじめる。学校にいる先生や友達がもつミームが脳に寄生したのかもしれないし、ふと書店で手にした本に書かれているミームが脳に寄生したのかもしれない。ヒトは初めは生存と繁殖のための道具として――クモにとってのクモの巣のように――ミームを獲得し、文化を進化させた。換言すれば、ミームの複製は我々の祖先の遺伝的適応度に利益を提供し、その「採算」はとれているはずだった。しかしその結果生み出された膨大な「ならずものとなった文化的変異体」としてのミームが脳をハックすることで、「何のために?」という理由を問う心、つまりテレオノミー的な主体性が誕生したと考えるのは面白い。再び『エクス・マキナ』においていえば、人工知能のエヴァにおいてテレオノミー的な主体性が創発したのは、検索エンジンのビッグデータというミームによってであるといえるかもしれない。

なるほどヒトの生というものは、もはや利己的なジーンと利己的なミームがそれぞれの適応度のために鎬を削り、ときに協調をはかる物語であり、我々の意識はそれを何かの映画のようにずっとみせられているだけのかもしれない――。






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