アランの感情論

怒り、悲しみ、憎しみ、恐怖・・・等々といったものは、一般的に「感情」と一言で括られて表現される。しかし、20世紀デカルト派の哲学者アランは、じつはこれらの感情はさらに3つのレベル、あるいは段階に区別している。「わたしは情動、情念、感情という貴重な系列について、いかにも苦心を払ったのであった。わたしは絶えず克服される情動と情念をもとにして、はじめて感情を認めることができた」と彼は書いている。感情というものを理解するのに好適なので、今回は彼の感情論を紹介してみよう。

彼によれば、一般に「感情」と呼ばれているものは、次の3つのレベルに区別される。

・情動(エモーション)
・情念(パッション)
・感情(センチメント)

の3つの段階がそれで、どれも基本的には身体の生理的な運動によって生み出され、維持され、促される。感情はすべて、基本的には身体の生理的運動に依存しながら生成・変化・発展するものだが、依存の程度に差があるので、3つのレベルに区別することができるわけである。また、心理学者の宮城音弥氏の分類では、次の4つの段階の感情を区別している。

・快苦感(フィーリング)
・情動(エモーション)
・熱情(パッション)
・情操(センチメント)

多少、アランの分類とは日本語が異なるが、英語表現は同じだから、ほぼ変わらないものと思われる。また、これら4つのうち、「快苦感」と「情動」の2つはひとまとめにして「アフェクション」と呼ぶこともあるとしているので、事実上はアランの分類と同様、3段階の区別と見てよいだろう。

このなかで「情操:センチメント」というのは、美しいものや偉大なもの、崇高なものなどを認めたときに感動する心の働きのことで、アランの言う「感情」(センチメント)とほぼ同じレベルのものと思われる。日本語で「情操」とも呼ばれるものがこの感情(センチメント)に当たる。これがもっとも上位にある、高級な感情である。

■情動:エモーション
アランによれば、上記の感情の3つのレベルのうち、もっとも基本的で原初的なものが「情動(エモーション)」で、これが身体の生理的運動との直接的結びつきがもっとも強いものである。

実際、情動としての怒りや恐れを感じているときには、心臓の動悸が早まったり、身体が震えたり、冷や汗が出たり、血圧が上昇したりといった身体的な変化を伴う。情動と言うのは、それほど密接に身体運動に結びついて感じられる。というより、これらの身体運動こそが情動そのものなのだ。もしこれらの変化、つまり震えや動悸や冷や汗などの身体的変化がなければ、情動としての恐れや怒りもない。

このように情動は身体の生理的なじょう乱に強く結びついているだけに、むしろ一時的なものであるという性格がある。だから生理的じょう乱が収まって安定してしまえば、恐れや怒りなどの情動も収まって落ち着いてしまう。

■情念:パッション
一方、情念も情動と同じく、身体の生理的じょう乱に依存して生成・維持・発展する感情だが、こちらは情動のように一時的なものではなく、持続的になった感情である。そしてこれが人間の感情状態のもっとも一般的な状態なのである。アランは「情動がなければ情念もない」と言っている。生理的じょう乱がなければ情動はなく、情動がなければ情念もまたない、という関係になっている。

情念ははっきりと精神(心)のなかに現れ、精神のなかで理性的な思考を混乱させて、いろいろな悪影響を与えるという性格がある。実際、なにかの原因で腹を立てているときには、あれこれもっともらしい怒りの理由を次々と考え出して、自分で自分の怒りをさらに高めてしまい、まさに嵐のように荒れ狂う激怒といった状態にすらなる。

そしてアランによれば、情念は持続的なものであるだけに、精神を激しく混乱・動揺させ、精神の高次の機能である意思を無力化してしまう。その結果、怒りは更なる怒りを生み、憎しみはさらに憎しみを育て、不安は恐れへとさらに高まってゆく、という事態に陥ってしまう。

アランによれば、そのように情念がエスカレートしてゆく動因は、「想像力の働きによるもの」だとしており、彼の想像力論を展開している。これもたいへん面白い想像力論なのだが、今回は割愛する。

こうした情念のはたらきは、古代の時代から人間を精神的に悩ませ苦しませてきた問題だけに、情念からの救済を求めて、多くの宗教や哲学者が救済策を求めて取り組んできた。デカルトの著書「情念論」は、そうした取り組みの集大成と言うべき研究書だ。おっそろしく分かりにくく、読んで面白くない本だから、お勧めはしないが(笑)

参考文献
・アラン「アラン著作集第8巻 わが思索のあと」田島節夫訳、白水社
・アラン「定義集」神谷幹夫訳、岩波文庫
・宮城音弥「新・心理学入門」岩波新書

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