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分裂と増殖、女性をめぐる村田喜代子論ーー大きくなるわかめを添えて

村田喜代子と「増殖」

『村田喜代子傑作短篇集 八つの小鍋』という文庫本に、『蟹女』という作品が入っている。僕はこの本を二冊持っていたのだけれど、東京からタイ、そしてフィンランドに移り住む過程で二冊とも紛失した。

電子書籍も売ってないので、記憶をもとに紹介しよう。この物語は病院に入院している女を中心に描かれていく。女は精神科医の先生(注1)に、自分の過去を語っていく。幼少期の思い出では、ままごとの道具をたくさん集めていたことが語られる。その後もさまざまな「病的な数の多さ 」が語られていき、終盤では、何十人もの娘や息子、孫たちが病院にお見舞いに来るという妄想が披露されて終わる。簡単に言ってしまうと「多産妄想」に取り憑かれた女をテーマにしていて、この物語の根底にあるのは「産む身体」としての女性のイメージである。

村田喜代子は、少なくとも2010年ごろまで、「増殖」というテーマをかなりしつこく書いている。『望潮』という作品にも、海岸を埋め尽くす大量の蟹が出てくる(注2)。『百のトイレ』ではその名の通り、廃棄された真っ白な便器の山が出てくるし、『白い山』という作品でも、明け方の山に登っていく人々の明かりが、無数の小さな光となってゾロゾロと動く様が描かれる。

他にも『ドンナ・マサヨの悪魔』というやばい長編小説があって、これはお腹のなかの赤ちゃんが母親に語りかけてくるという妊娠小説。『茸類』という短編では、シイタケ栽培を営む夫婦が出てくる。お腹の中の赤ちゃんも、シイタケのようなキノコ類も、とにかく細胞分裂を繰り返して大きくなる。近年の『光線』も、主人公の女性が癌になり、がん細胞をめぐる物語になっている。ちなみに、『あなたと共に逝きましょう』という長編で死にかける夫の病は、大動脈瘤破裂である。男は分裂とも増殖とも無関係に、ドカーンと爆発して終わりなのである。

男性の例はともかく、村田喜代子と「分裂・増殖」は切っても切れない関係にあるということは、お分かりいただけたと思う。

増殖可能な性としての女性

僕が村田喜代子の小説を好きでたまらない理由は、おそらく、「数が増える快楽」があるからだと思う。どの小説も、読んでみるとわかるけれど、人間とか、蟹とか、便器とか、そういうものが一気にゾゾゾと大量に立ち現れる瞬間には、稀有な爽快感がある。そして、村田喜代子の「増殖」マスターっぷりは、彼女自身が女性であり、二児の母となってから小説を書き始めたことと関係している気がする。

僕の好きなフィンランドの芸術家に、Outi Heiskanenという女性がいる。彼女の作品はペン画が多くて、小さな紙に動物や植物がやたら細かく、まるで細胞図のように描かれている。2021年にアテネウム美術館で開かれた回顧展では、彼女の私物と思われる雑貨や小物が、わらわらと床に置かれたインスタレーションがあった。その部屋に入ったとき、実に村田喜代子的で良いと思った。Heiskanenも、幼少期の性被害が作品に影を落としていて、性的なモチーフが見え隠れする作家である。

霧島でも新宿でも、パリでもバルセロナでも、生涯で何度見たことかわからない「水玉の女王」こと草間彌生の作品も、その多くが「反復と増殖」を連想させる。音楽のジャンルでも、アーバンギャルドというバンドがあって、最初期から水玉をモチーフにしている。アーバンギャルドが歌う水玉は、ここでもやはり「性と増殖」のイメージである。

増殖できず、数えたり大きくなったりする男

以上のような嗜好からお分かりかもしれないが、僕は「反復」や「増殖」のイメージに魅了された男である。これだけだと話がスムーズなのだが、僕はそもそも「何かがたくさんある」状態、すなわち「数の多さ」が好きだという疑惑がある。たとえばスーパーで大量のカートが連結していると「全部で50台はありそうだな」と思ってしまうし、大きな木を見ると「この木の葉っぱは4万枚くらいかな」とか勝手に想像している。会社のエレベーターのボタンの上に、到着フロアを案内するスピーカーがあるのだけれど、その並んだ穴の数が4x5x5で100個だということも知っている。暇なときによく、目に見えるものの数を数えているのだ。

ちなみに僕は福岡出身なので、小学校では「川中島」といういわゆる騎馬戦が競技になっていて、出陣の前に「武田信玄vs上杉謙信」の歌を歌った記憶がある。紅組は武田信玄で「率いる勢は八千騎」、白組は上杉謙信で「率いる兵は二万余騎」と歌詞に出てきて、自分達の騎馬が八千とか二万とか大きな数に膨らむイメージに興奮していた。(注3)

僕は生物学的に男なので、子どもを産んで増殖する(?)ことはできないし、お腹の中に赤ちゃんが登場して細胞分裂を繰り返すこともない。そんな僕が「数が増える」モチーフを好きなのって、最近よく言っている「あたしの中のオンナ」が、分裂と増殖に憧れているのかもしれない。あるいは単純に、「あたしの中のオトコ」が女性を増殖させ、分裂を引き起こしたがっているのかもしれないし、「あたしの中の少年」が大きな数に興奮している可能性もある。

ちなみに「ふえるわかめ」こと理研ビタミンの「ふえるわかめちゃん」は、分量は増えるけれど、わかめ自体は増えるのではなく、大きくなるだけだ。そういう意味で、あれは本当は「大きくなるわかめくん」である。


注1)この先生は、診療のあいだの短い休み時間に、お昼ご飯を高速で食べる。いわゆる「医者の早食い」である。天丼に覆いかぶさって食べている様子を、「(かけている)大きなメガネで天丼に蓋をするように」と表現されていたはずである。このあたりの芸当は、見事としか言いようがない。『望潮』の冒頭、先生が醤油の付いた箸で島の形を空中に描いてみせる描写も、凄すぎるのでぜひ読んでほしい。

注2)蟹はいろいろと細かくびっしりしている。背中にはカニビルと呼ばれる黒い粒々がついていたり、口からぶくぶくと小さな泡を吐いてみたり、小さなプチプチした卵を産んだり、卵から孵った小さな蟹の群れが砂浜を埋め尽くしたりする。ちなみに、蟹といえば、ジュディ・バドニッツの『Yellville』という短編小説にも蟹が出てくる。こちらはあまり分裂とか増殖とかいう感じはしないけれど、かなり頭がおかしい感じがして面白いので、蟹好きにおすすめ。

注3)なぜ少年たちは、大きな数の単位に憧れるのだろうか。「一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、𥝱、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他・・・」と大きな数が言えた方が勝ち感があった。

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