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Tree of Codesの感想ーーダンスと芸術、ひらひらと揺れる手について

8月12日の金曜日、ウェイン・マクレガーの演出と振り付けによる、Tree of Codes(ツリー・オブ・コーズ)というコンテンポラリー・バレエを観に行ってきました。ビジュアルコンセプトはオラファー・エリアソン、作曲家はジェイミー・エックス。コンテンポラリー・ダンスは、2014年ごろに観た黒田育世さんのBATIK以来、かれこれ8年ぶりです。ヘルシンキ・フェスティバルの公式予告動画はこちら。

以下、Tree of Codesの感想、というか、ダンスという芸術そのものについての概想。


ダンスは床の芸術である。たとえば演劇では、床は土になったり、アスファルトになったり、草原になったり、畳や大理石になったりする。つまり、演劇の床は床としては存在しない。ところがダンスでは、床はつねに床という物体として、厳然としてそこにある。

ダンスは決して、床から離れることを欲望する芸術ではない。たしかにダンサーたちは、つま先立ちで歩き、ジャンプし、別のダンサーをできるだけ高く持ち上げることがある。しかし、床との接触を避けていると、ダンスはやがてサーカスになってしまう。ダンスの本領は、やはり床とダンサーの対話であり、対決である。

ダンスは部分と全体の芸術である。観客は、常に部分と全体を往復して見ることになる。三人が舞台上で踊っているとき、一人に注目して見ていると、三人が作り出す全体の調和は見ることができない。反対に、三人の調和を俯瞰して眺めているとき、つまり全体を見ているとき、部分である一人の踊りは見ることができない。一人が踊っていても、手を見るのか、足を見るのか、表情を見るのか、観客は主体的に選び取ることを迫られる。人はダンスを見るとき、常に何かを見ていない。

ダンサーは別のダンサーとペアを組んだり、あるいは三人や四人がひとかたまりになることもある。離れていても同じ動きをシンクロして見せて、仮想的につながっていたりする。つまり、部分は常にさまざまなかたちで、お互いにくっついたり、離れたりする。

ダンスは統制の芸術である。つまり、全体が常に部分を規制している。ダンサーは常に、自分の外部の何か、他のダンサーたちや、音楽(リズム)によって規制されている。いちばん大きな全体は「時間」といってもいいかもしれない。

ビートルズのリンゴ・スターがドラムをゆっくり叩いたら、バンドの音楽がゆっくりになる。ポール・マッカートニーがベースを止めたら、周りが気づいて音楽が止まる。バンドも演劇も、落語も歌舞伎も、演者は相互に作用して、進行を早めたり遅めたりしつつ、共同で進行を進めていく役割を担っている。ところがダンスは違う。Tree of Codesでは、上演時間はきっちり75分と決まっている。


ダンサーたちは床の上を動き回りながら、お互いに繋がったり離れたりを繰り返す。ところが、待ち合わせの場所で、そこにあるはずの別のダンサーの手がほんのわずかに遅れて、あるべき場所に無いことがある。待っているダンサーは、とっさの判断を迫られる。あと100分の一秒、相手の手を待って、一緒に行くか。それとも、自分の手だけ先に行き、あとで追いかけてきてもらうか。

そのときに、ほんの一瞬だけ、暗闇で手探りするように、ダンサーの手がひらひらと揺れるのを見た。あの本能的なひらひらに、人間が踊りを踊ることの意味と、意識の秘密が隠れているような気がする。

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