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【読書】藤井信幸『池田勇人 所得倍増でいくんだ』ー「健全ある積極財政」論者としての池田勇人

所得倍増「計画」ではなく、所得倍増「政策」

「所得倍倍増計画」を打ち出し、高度経済成長時代を作り出した池田勇人の優れた評伝。世間では池田勇人といえば、「所得倍増計画」の実行者と評価されているが、池田は「所得倍増計画」の計画性を明確に否定しており、厳密に言えば「所得倍増政策」と呼ぶのが正しいと述べられている。

所得倍増計画とは、字義どおりに解釈せれば、十年間で所得を二倍にする計画の意となる。現に、同計画を策定した経済企画庁・経済審議会は、そうした立場に立ち、毎年7.2%ずつで成長すればよいと見積もっていた。しかしながら、この計画の推進者であった池田勇人自身は「私は統制経済や計画経済論者ではないから、十年という期間を限定して、計画的に月給を二倍にするとは、いいもせず、考えてもいない」と7.2%成長を否定したのである。このように池田の意図した所得倍増計画は目標成長率が曖昧で、「計画」であることさえ否認したから、むしろ、厳密に言えば、"所得倍増政策"とでも
呼ぶべきであり、事実、池田とそのブレーンたちはその語を用いることが多かった
。(P.2)


ジョゼフ・ドッジの忠実な伴走者としての池田勇人

戦後の1949年2月に第三次吉田茂内閣が発足。池田は初当選で吉田内閣に蔵相として入閣した。ここから池田の政治家としてのキャリアが始まる。当時の日本経済では、軍需品納入契約の後始末や軍人への退職金支給などによる臨時軍事費の増大、日銀の対民間貸出増加などによるインフレが進行しており、インフレ収束が政治的な課題であった。インフレ収束のための「均衡財政への志向」は池田を含めた大蔵官僚層に共通する気質であり、「池田をはじめ大蔵省側は、ドッジと真っ向から対立したというわけではなく、むしろ両者の政策スタンスはかなり近かったといってよい。(P.71)」と述べられている。この頃の池田勇人はドッジ・ラインの忠実な実行者であったことは忘れてはならないだろう。当時の池田は、公共投資は飽くまで補完的な役割で重要なのは民間の資本蓄積であり、そのために財政の拡大に繋がる公共投資よりも減税を志向しており、復興を後押しする政策としては公共事業以上に金融面を重視していた。(P.104) またドッジとの友好な関係を吉田茂に評価され、それが吉田の池田に対する信頼につながったようだ。

当初、池田は、シャウプ勧告を利用して減税を実施した以外は、概ねドッジの指示に従いインフレの収束に向けてデフレ政策を遂行し、ドッジの強い信頼を得た。もちろんドッジとの交渉で池田が反発することも度々あったが、池田も大蔵官僚の常として、健全財政に執着する傾向が強く、また戦時期の「大きな政府」を嫌悪していたから、ドッジとの距離もそれほど大きくなかったといってよい。インフレ対策や市場経済の復活は、基本的な立場に大差のないドッジと池田の云わば二人三脚で実施されたのである。(P.98)

池田均衡財政 VS 石橋積極財政

若田部昌澄『ネオアベノミクスの論点』において、石橋湛山と池田勇人が共に戦後のリフレ派に連なる論客であると書かれていたが、以下に述べるように、二人には相違点が多く正確な描写であるとは言い難い。第五次吉田茂内閣下での1953年の予算編成では物価安定を重視する池田勇人の均衡財政と鳩山に与する石橋湛山の積極財政が対立していた。池田は(均衡財政内で)750億円の貯蓄国債の発行、中央・地方を通じて1000億円の減税、金融緩和のための指定預金150億円の追加するという「貯蓄国債」案であったが、石橋は2000億円の建設公債の発行、それを日銀引受債として、そこで得た資金を一般銀行に預金してオーバー・ローンを克服しようとする「建設公債」発行案であった。同じ公債発行だが、池田は750億円の「貯蓄国債」を民間に売却する方針であったのに対して、石橋は日銀引受で「建設公債」2000億円を主張していたのである。石橋の日銀引受公債発行案は、ドッジがインフレの元凶の一つとして新規貸出を停止させた復興金庫の資金調達法と同一であった。従って石橋の主張は、ドッジ・ラインの遂行者であった池田の健全財政主義に真っ向から対立するものであった。(P.130) 石橋は池田に対して次のように論難していた。

「現在のように資金が逼迫している時に」減税を実施するとはいえ、池田は均衡財政を維持する方針であるから、貯蓄国債を発行するだけだは「市中から資金を吸い上げること」になり、「民間資金を極度に圧迫することになって非常にまずい」(『日経』52・8・10)

池田の均衡財政と石橋の積極財政の対立の背景として、再軍備に対する態度の違いが挙げられている。当時、池田は吉田派に、石橋は鳩山派に所属していた。吉田茂は軽武装路線、鳩山一郎は自主独立路線であり、軍備のために均衡財政にするべきか、それとも積極財政にするかで対立があった。つまり軽武装・均衡財政の吉田路線と自主独立・積極財政の鳩山路線が自民党内で対立していたのであった

健全ある積極財政


1956年12月に石橋湛山内閣が発足。池田は蔵相として入閣した。池田は石橋内閣下で次のように述べていることが面白い。


「石橋内閣の基本政策は国民生活向上と安定を目的とし、急激な変化をさけつつ、大いに積極政策を断行することである。『健全』とはムリな政策をせず、また引っ込み思案もしないということだ。一万田前総裁は"インフレなき拡大"をはかるといってきたが、私が大臣になってもかわりはない。」(『毎日新聞』1956年12月24日)

健全な積極財政とは、インフレを起こすような性格ではないという意味での健全、日本経済が均衡のとれた形でさらに発展するために、財政が果たすべき役割を積極的に遂行するという意味での積極財政を指す」(『三十二年度財政の方向』(『経済人』第11巻第三号, 1957年)) 

「公共投資はもっと思い切った措置をとることが必要であり、また経済の健全性を害しない範囲で積極策をとれる余裕がある。・・・財政規模がある程度膨張してもやむを得ないし、収支が均衡していれば経済の健全性を害するような心配はない」(『日経』56・12・29)

このように池田の積極財政は飽くまで均衡財政内での積極財政であり、公債発行さえ辞さないという石橋の積極財政とは違うものである。「リフレーションニスト」という言葉は石橋湛山には当てはまるが池田勇人には当てはまらないと思われる。

所得倍増政策の発動


石橋湛山内閣が石橋の病で短期間に崩壊した後、岸信介内閣を経て、1960年7月に池田勇人内閣が発足。自民党は1960年9月5日に「新政策大綱」を決定した。ここから「所得倍増計画」が発動する。池田は経済企画庁や経済審議会が叩き出した年率7.2%という経済成長率に納得せず、組閣後に、当時日本開発銀行理事になっていたブレーンの一人の下村治に再検討を依頼した。下村は年率11%という数字を出しており、経済企画庁と経済審議会の約7%と下村プランの11%の間を取って年率9%という数字を池田は目標としたようである。池田内閣の時に行われた太平洋ベルト構想について。これは「均衡財政を前提に限られた公的資金をできるだけ有効に活用しつつ、経済成長を促進するためには、特定地域に公的投資を集中させるのが理にかなっている」(P.247)という目的のために練られたプランであり、限られた財政資金を有効に活用することを公共投資の主眼としていた。池田は、地方ないし農村に対する公共投資を通じた利益誘導政策を忌避していたようである


本書の記述は、主に占領期から岸内閣までの池田勇人の業績について多くの紙面が割かれており、池田勇人内閣成立から池田の死までの記述は駆け足気味である。その点に不満があったが、世間ではあまり知られていない池田勇人の「均衡財政論者」としての側面がよく書かれている。占領期から高度経済成長期の日本の戦後史を知る上でお薦めの一冊である。


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