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ゴースト

 たしか、君が「ゴースト観たい!」って言いだすから、あの日、大学の帰り道、レンタルビデオ屋に立ち寄ることになったんだ。
「わたし、免許証持ってないの。変わりに会員証、つくって」
「えぇ?!」
 ここ、君ん家の近所なんだし、自分で作れよって言いながら、VHSのテープと一緒に免許証を差し出してる自分の姿が、ちょっと可笑しかった。

「何、食べたい? 焼きそばなら、作れるよ」って、田舎から出てきた君が一人暮らしを始めて覚えた、数少ないレパートリーのひとつを挙げてくれた。
 君の部屋は大学近くの丘の上にあった。住宅街の中にあって、1ブロック下の通りには個人商店の肉屋があったんだ。
「ねぇ、焼きそばのお肉って、何って言うの?」「何グラム買えばいい?」
常連顔してお店の引き戸を開けた割には、初めてなんじゃん! ガラスケースの向こう側に並んだいろんな肉の部位の名前に面食らった君の顔と唇が、急速に近づいてきて、小声で僕に耳打ちしたんだ。僕だって、スーパーでトレイに盛られてパッキングされてる肉しか買ったことないんだけど。

 君の部屋から僕のアパートまで、私鉄ならトンネルを挟んで駅ひとつ分、自転車なら小高い丘陵地をずぅっと越えていかなきゃいけなかった。授業が終わってから君の部屋に寄って、宿題と食事を済ませてから帰る日がしばらく続いたある日のことだった。
 僕が部屋にいると、たびたび君の友達から電話がかかってきた。
「今、コウと宿題してるよ」
 名前を呼ばれるたびに、なんだかドキドキした。

 キッチンの後片付けは、いつの間にか僕の仕事になっていた。リビングに戻ると、さっきまで食事に使っていたテーブルがすっかり綺麗に片付いていた。さながら映画館の上映技師のような顔をした君が、大きなビニール袋の中から借りてきたテープを取り出して、ビデオデッキの口に差し込んだ。
「あ、ちょっと待って!ビール買って来たの、飲むよね?」

 灯りを落とした部屋の中で、テレビが発する青く白い光に照らされた僕らの影が、壁にあたって浮かんだり消えたりしていた。隣に座っている君の長い髪が僕の頬と肩に触れた。すごく甘くていい香りがした。君の横顔がどことなく上気したように見えたのは、テレビの色を映しただけかもしれなかった。
 そんな君が画面に見入りながら上の空なのに気がついたのは、デミームーアが轆轤(ろくろ)を回すあのシーンの時だった。君の白い腕がすうっと伸びてリモコンをつかんだ。細い人差し指が一時停止のボタンを押した。
「シャワー、浴びてくるから、待ってくれる?」

 彼女が発した魔法の言葉は、画面を見つめる僕の瞳が瞬きをすること、膝を抱えた腕から指先に至るまでの何もかも、動かす力を瞬時に奪い去ってしまった。
 静まりかえった部屋の中で、流れるシャワーの水音と高鳴る鼓動だけが僕の耳の奥でざわめきながら響いていた。

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