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小説『同窓会』7

   《 旋律のオスカル 》
        ~ 木崎まのあ ~


音楽は常に生活の中にある。

それは演奏という形に捕らわれず、音という概念だけで受け取れば、風のうねりも雨のしたたりも足音も、口から放たれる言葉でさえも耳に響くものはすべてが音楽だ。ひとは皆、音に抱かれ音に流されながら〈人生〉という音楽の中で生きている・・・・。

ベートーヴェンの『運命』さながらに激動を駆け抜け切磋琢磨する者もいれば、ショパンの『子犬のワルツ』のように自由奔放に我が道を行く者、モーツァルトの『トルコ行進曲』のように軽やかながらも日々を忙しなく急がされる者もいる。個人の歴史など目まぐるしい時代に比べれば詮無いことだが、とはいえ現実を生きる自分たちはとめどなく流れる音楽(時代)の中で、目に見えない「休止符」も「ブレス」も、だれの目に触れることもなく走らされ、ひとそれぞれの「クレッシェンド」「デクレッシェンド」も気づかれなければ意味がなく、突出した才能もなければ流れの中で取り上げられることすらない。音楽はただ流れ続け、傍目に見てはそれが『歓喜の歌』なのか『悲愴』なのかなどだれにも解らないのだ。

人生を『組曲』に例えるなら、誕生の『序奏』から始まって『行進曲』へと進み、今は『モノローグ』。『終曲』を迎えるまでにどれだけの名曲を奏でられるだろうか。どれほどの素晴らしい楽曲を生み出せるのだろうか。『わたし』という音楽はどこまで響かせられるのだろうか・・・・。

各いう自分の人生もその流れに翻弄されて生きてきた。同じ時代にずば抜けた才能の持ち主がいれば、どれほどに自分の技術が長けていようとも〈将来性〉や〈閃き〉という目に見えない才能には抗えない。ましてそれが同級生ともなると、自分で自分に引導を渡さねばならないこともあるのだ。
幼いころからピアノだけを信じて生きて来たまのあ。楽譜を見れば作者の気持ちが手に取るように解る。なんの疑いもなく「自分の生きる道」なのだと信じて歩んできたその輝かしい黄色いレンガの道の途中で、なにに遭遇しようともブレることなく進んでいけば必ず煌びやかな城にたどり着けるのだと疑いもしなかったのだ。だが、どんな旅にも茨の道は存在するのだと思い知らされたのは小学校中学年の頃だっただろうか。

『…小学校中学年の部。入賞…羽田潤一郎、木崎まのあ、御門玲』
『…小学校高学年の部。入賞…新庄友孝、木崎まのあ、御門玲』
『…中学校の部。入賞…羽田潤一郎、木崎まのあ、栗山信二、御門玲』

当然ながら自分は予選通過を難なくクリアしているようにも見えた。だが、必ず自分のあとに呼ばれる名前があった。それが〈御門玲(みかどあきら)〉という男の子のような名の女の子だったのだ。当然ながら名前を呼ばれる順番は、後方に行けば行くほど成績が優秀ということだった。いつしか自分のこぶのように〈御門玲〉の名前はついて回り、高校入学時の体育館でその姿を捉え衝撃を受けるのだった。
(どこまでつきまとうのかしら…!)
半ば悪夢のようなそれは、まのあにとってはトラウマそのものだった。
そして高校3年の秋、まのあの命運を分ける大規模な国際ピアノコンクールが行われた。優勝すれば海外留学のチケットが手に入る、ピアニストを夢見る者にとっては是が非でも勝ち得たい副賞だった。

・・・・木崎さん、すごいわ~。海外留学ですって!?
〈え、えぇ…〉
・・・・また一歩ピアニストに近づいたわね。すてき!
〈そんなこと〉
・・・・あら謙遜なさらないで。素晴らしい功績ですわ
そうじゃない、そうじゃない、

そうじゃない!

〈御門さん、なぜ出場なさらなかったの!〉
〈義務ではないはずよね?〉
〈そういうことじゃなくて…!〉
〈私には、必要のないことだったから…〉
奇しくも『旋律のオスカル』と冠された〈木崎まのあ〉は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで海外を飛び回るピアニストである。そんな彼女の生涯の夢を「必要ないこと」と処理した玲に、敵意が湧かなかったと言えば嘘になる。


かつてお嬢様学校ともてはやされた世界で、生徒達の憧れの象徴『オスカル』の名を冠されて過ごした乙女たち。時に繊細に、時に赤裸々に、オスカルが女でありながらを纏うことを諦めたように、彼女たちもまたなにかを諦め、だれにも言えない秘密を抱えて生きている・・・・。

創立100周年の記念パーティーは『高嶺(高値)のオスカル』こと〈御門 玲〉の父親の営む高級ホテル〈IMPERIAL〉で、在学していた当時を圧倒的に凌ぐ煌びやかさで盛大に行われた。世界中で活躍する卒業生や卒業生の息のかかった腕の立つ料理人たちが集められ、エンターティナーショーさながらにその腕前は披露された。

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まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します