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小説『オスカルな女たち』47

第 12 章 『 決 断 』・・・3


    《 まったくありえない 》


「え!? 羽子(わこ)ちゃんが妊娠!」

「つかさ、声が大きい…」
いつも通りの週末の『kyss(シュス)』での光景ではあるが、今夜は玲(あきら)の緊急招集でもあった。
「あぁ、ごめん。だって…いきなり?」
目をキョロキョロさせて肩をすくめるつかさ。
「『家出した』って言ってから展開が早いなと思って」
今さら小声で話してもそれは後の祭りだった。
「まぁ、想定内というべきなのかしら…」
それは〈家出〉に関してのことだけなのか、それについてきた〈おまけ(妊娠)〉についてのことなのか、珍しく頬杖をついてため息をつく玲。
愁いを帯びた仕草がなんとも色っぽいのだが、口をついて出てくるのは娘の〈妊娠騒動〉についてである。
「昨日は誕生日だっていうのに、パパはカンカンで話にもならないし…羽子は羽子で妊婦だっていうのに力むわ、叫ぶわ、暴れるわ、挙句に失神するわでハラハラさせられっぱなし…」
「失神!?」
「一瞬ね。本当に疲れたわ」
言いながら髪をかき上げる。
「玲、いちいち色っぽいね」
「つかさってば…」
そうは言っても口元が歪んでしまう織瀬(おりせ)だった。
「昨日? そうか討ち入り、誕生日か」
真実(まこと)にしてみれば渦中にあり、いい加減玲の鋭いまなざしにも慣れっこだという様子で、そっぽを向いて答える。
「すっかり師走だねぇ…」
またいつものやり取りが始まるのかと、つかさも牽制しつつ周囲の賑やかさに目を配る。
「そうよ。既に会社の忘年会や新年会の予定でてんてこ舞いだっていうのに…師走も師走に、なんでこんな問題持ち込んでくるのか…我が娘ながらアッパレと言わざるを得ないわ」
頭を抱えて肘をつく玲は、見た目以上に参っているようだった。
「確かに。毎年この時期の玲とは連絡が取れない」
真実も通年の玲の忙しさを示唆する。
「去年は妊婦でそれどころじゃなかったけれど…」
「珍しいね、旦那様。そんなに怒るって…忙しさのせい? あぁでも、10代の妊娠じゃそれも当然のことなのかな、娘だしね」
なんだかしょっぱなから険悪だな…と思いながらも、話の内容が内容なだけに気遣いを忘れない織瀬。
「怒りの矛先はそこじゃ、な~いの。おかわり~
ジョッキを振り上げ追い打ちをかける、幼馴染の真実には織瀬やつかさの知りえないお家事情も承知の上…ということらしい。
「なに?」
まだなにかあるの…と、玲を見遣るつかさは、
「結局、相手だれだったの?」
当然の疑問を投げかけた。
そこよ!
急に玲がテーブルを叩き、
「っ、びっくりした…」
織瀬が弾かれた。
「相手が、問題なの?」
恐る恐る玲の顔を覗き込む織瀬。
「私もジョッキでいただこうかしら」
「お、いいねぇ…。すみませ~ん、もうひとつ~
さらに真実はカウンターに向けジョッキをおおぶりに振って見せる。
「玲的にはどうなの?」
単純に、娘の所業を「許せるのか」と問うつかさ。
「どうもこうも、覚悟を決めてもらうしかないでしょう」
そこに「否定」の2文字はなく、ただただ娘を心配する母親の言葉でしかなかった。娘の行動に対し「不始末」であるとか「不誠実」などというマイナスな態度ではなく、ただひたすらに娘の尊厳を重んじ案ずるばかりだと受け取れた。それは、
「当然。玲の中には初めから前に進むことしかない」
という、真実のひとことがすべてを語っているようだった。
「玲は振り返らない女だ」
「前からすごいとは思っていたけど、玲のそういうところ尊敬する」
しみじみと玲を見つめる織瀬。
「なによ、改まって…」
「普段こうして一緒にいると、見た目に圧倒されて忘れがち…だけどさ『母親なんだなぁ』って、思って」
そう言って「尊敬のまなざし」とばかりに優しい目を向けた。
「あら、ありがと」
「ホントだよね、とても5人の子持ちには見えないもの」
あたしも納得…と、つかさも続いた。
「それも誉め言葉と受け取るわね」
にっこりと微笑み返す。
「褒めてね~し」
相変わらずの強気な発言に目を見開く真実は、小声でヤジる。
「それはやっかみね」
「っは…」
「お待たせしました」
いつものふたりの絡み合いが勃発する前にタイミングよくジョッキがふたつ運ばれ、真実と玲は無言でグラスを重ねた。
普段ならここで2、3会話を弾ませるところだが、今日は親し気に会話を交わせる真田が不在だった。

あかちゃん

「で、結局だれだったの、相手」
言われて玲は上目遣いに真実を見据え、
「水本建設、知ってるわよね?」
と、もったいつけたように言葉を投げかけた。
「旦那の本家だろ。え?」
なにか気づいたように玲を見返す真実。
「水本、建設…?」
「旦那様の実家?」
織瀬とつかさも、続けざまに玲を見る。 
「そこの次男坊…なのよ」
「水本建設の、息子…?」
「次男坊。それって…」
「従兄弟…ってこと?」
「血縁関係はないけれどね」
玲の長女である〈羽子〉は、水本家の血筋ではない。玲がこの世の中で一番最初に愛した男の子どもだ。
「それで逃げたのか」
羽子のお腹の中の赤ちゃんの父親は〈水本建設〉の次男坊。次男坊であることが唯一の救いではあったが、この際それは問題ではない。問題はその父である〈水本英平(ひでひら)〉なのだった。彼は玲の夫〈泰英〉の実弟であり、20年以上絶縁状態にある曰くつきの身内なのだ。
「とにかく、私も会ったことがないくらい謎な家族のひとりよ」
「ていうか、他の家族には会ったことあるわけ?」
頬杖をついて言及する真実に、
「あるわよ。派手好きな生前のお義母さまと、愛人の家に入りびたりで最後まで家に帰ってこなかった生前の不動産王…それから、」
「あぁ。いい、いい。みなまで言うな」
掌をひらひらさせ「みんな死んでんじゃん…」と口の中でつぶやきながら、目を細めて頬をかく。
「で、なんで仲悪いの?」
どうせ、くだらないんだろ…そう言いたげな顔を隠すこともなくジョッキを傾けビールを流し込む。
「事業の上で…意見の合わない箇所が、いくつか。それと、あちらの髪がふさふさなこととか、あちらの方が若々しいだとか、背が高いとか? そもそもどちらが先に生まれて来たか…から、始まっているらしいわ」
「くっだらね…」
やっぱりな…と、ため息をつく真実。
「いいたいことは解るわ。でも兄弟喧嘩なんてどこもその程度じゃなくて? 大きいか小さいかは別として」
「まぁ、身内にしか解らないこともあるしねぇ…」
幼馴染である真実は別として、織瀬やつかさには玲の親戚筋の話はまったくの初見だった。まして旦那様のお家事情ともなればなおさらだ。
「え? どちらが先に生まれたかっていった…? 弟さんじゃないの?」
話が読めない…と織瀬が問えば、
「あちらは自分こそが『兄』だと思っていらっしゃるわ」
玲はさらりと答える。
「え、双子!?」
それまで黙って聞いていたつかさも口を開く。
「えぇ、そうともいうわね。しかも二卵性なの、まったく似てらっしゃらなくて。こっちが戸惑うくらいよ」
肩を上下させる玲。
「昔は仲が良かった、らしいのよ。というより…今も仲はいいわ、表面的には。ただ、一方的に嫌っているのよ、主人が。かわいいでしょ」
かわいい…玲らしからぬ言葉を使う。
「かわいいって、玲…本気で言ってるの?」
目を丸くするつかさに、
「とんだヘラクレスだな」
遠慮なく毒づく真実。
「やだ、変なこと思い出さないでよ…」
玲は、いつだったか自分の夫を〈ヘラクレス〉に例え誉めそやしたことがあった。
「なんで玲はその、くだらない兄弟喧嘩に付き合ってるわけ?」
いつもなら「くだらない」その類の話には「我、関せず」を通す玲に、なぜ「くだらない」ままに放置しておくのか…としつこく問いたい真実。
「まさか親戚付き合いが発生するなんて思ってもみなかったんですもの」
ため息をつく。
「なんだそれ」
「喧嘩していようとしていまいと、いがみ合う理由がくだらなければ口を出すこともないと思っていたのよ。こんなに長い間疎遠になるとも思わなかったし、出会ったころはよく知らなくて、それこそ会うこともなかったから」
そう言って玲はいったんジョッキを口に、のどを潤した。
「仲が悪いことを知ったのは結婚式の時、主人が弟家族の席をなかなか用意しなかったから。…織瀬の言う通り身内にしか解らないことがあるのかもしれないとも思ったし、私はまだ若くて意見することもためらわれた。とりあえず生活に影響がなければそう大きな問題でもないと思っていたのよ。仲が悪いことで私たち家族が困るわけでもなかったから、この先もずっと接点もないままだと…。それに兄弟喧嘩なんて面倒、私ずっと傍観を決め込んでいたから、正直なところあまりよくわかっていないの。…でも、」
「出会っちゃったのね、子どもたちが」
はぁ…と、愁い交じりに頷くつかさ。
「そう。出会ったのは私の結婚式よね…。当時は子ども同士だったし、まさかこんな未来が待っていようとはね。皮肉なことに、主人がキューピッドになってしまったってことよね。私たちの結婚がなければ、あの子たちも出会うことはなかった…」
「それからずっと好きだったってこと? 初恋、なの?」
そんなキュートすぎるエピソードに織瀬が黙っていられるはずがなかった。
「あぁ、違うの。でも、どうかしら…? 出会うきっかけが結婚式だった…ってだけのことと認識していたけれど。でも、そうね、偶然にしてもふたりは再び出会った。それに関しては運命としか言いようがないのかも」
再会したのは羽子が高校に入学して間もなくだったという。
水本建設はいわゆるゼネコンと呼ばれる建設会社のひとつだ。大概がビルの建築だったが、マンションや商業施設のほか、公共事業にも多く携わっている。その中のひとつが学校建設やその補修工事で、羽子の通う高校がまさにその対象だったというわけだ。
「詳しく聞いたわけではないけれど…あの子、出席日数が足りなくて夏休みや春休みはほとんど補習授業に通っていたから…」
記憶をたどれば羽子の入学当初、耐震工事に加え、新しいトイレの設置等で構内のあちこちに工事業者のトラックを見かけていた。その下請け業者の中に、水本建設の次男が〈修行〉と称して出入りしていたのだという。
「そんなこともあるんだね…」
出会いは幼くとも、再会時のふたりはもう充分に恋愛のできる年齢だ。思い出話に花を咲かせ、お互いを求め合うまでにそう時間もかからなかったのだろうと容易に想像がつく。
「織瀬が好きそうなパターンだな」
すぐ横で、目を輝かせる織瀬に「やれやれ」と目を見張る真実。
「相手はどういう子なの? 会ったの? 玲も反対なの?」
それについてはつかさも同様で、そんな出会いであるのなら「応援したい」とまで考えが変わっていた。
「そうねぇ、真面目な子よ。年は確か21? 今は左官の修行をしているらしいわ」
「左官…」
「あ、型枠大工だったかしら? とにかく建築に係る仕事の研修よ」
言いながらクラッカーに手を伸ばす玲。
「家を継ぐってこと? でも次男なんだよね?」
他人の家の跡継ぎ問題などどうでもいいことではあるが、玲の娘が関わっているとなると話は別だ。
「御長男はとても優秀らしくて、弁護士の卵なんですって」
「じゃぁ、事実上の跡取りなんだね」
「あちらはどう言ってるの?」
「あちらは、大喜びよ。『かわいい嫁がくる』って…。でも、嫁に出す気は毛頭ないと主人が言い張っちゃって…」
「でもそんな仰々しい家庭なら、高校生の羽子ちゃんがお嫁に行ってやっていけるの?」
「その辺はこれからの話になると思うけれど。高校はちゃんと卒業してもらうわ。中卒で嫁に出したとあっては私のプライドが許さないもの」
「腹デカいまま、学校行かせるのか」
飲みかけのビールを吹きそうになる真実。
「そうじゃないわ。通信の高校に編入させるつもりよ。望むなら大学も…まぁ、それはないでしょうけど。その辺のけじめはつけてもらわないと、私も手放しでは喜べないし主人も説得しようがないわ。だから今日は、そういった話をするために英気を養おうと、あなたたちに来てもらったわけなのよ」
「へぇ…」
しみじみと聞き入っていたつかさだったが、
「え? それって、玲。おばぁちゃん!?」
自然とほころんでしまう口元に両手をあて「30代で!?」と小声で続けた。
「しかも息子と孫がほぼ同年齢…」
楽しそうに口の端をゆがめ、追い打ちをかける真実。
「子どもの成長って、あっという間よマコ」
チロリと刺すような視線を投げ、再びジョッキを傾ける玲。
「なんであたし?」
「最近の佑介の態度を思えば、あなたもそろそろ今の関係を考え直した方がいいってことよ」
「関係ねぇよ」
一緒にするなよ…と、そっぽを向く。
「まぁ、いろいろと事情があるのでしょうけど…」
織瀬に倣い「身内には身内の…」と皮肉めいた言葉を返す玲。
「なんだよ…」
「ぁ、事情って言えば…」
片手を軽くかざし、静々と織瀬が口を開いた。
「織瀬…?」
真実が目を見張る。
「今話すことかどうかわからないんだけど、今言わないと機会逃しそうだから、いうね」
落ち着かない様子で前置きをする。
「なに、改まって」
「…ぁ~あたし、養子を迎えようかと思っているの…」

「えぇぇぇxxx!?」

「やだ、つかさ、声大きい」
「だっ…だって、」
今日はこればっかりだ…と、手の甲で口元を抑え「…こっちもいきなりだね」とつぶやいた。 
「そうだね。あたしも決心するまでそう時間もかからなかったから」
遠慮がちではあるが、話の内容はなかなかに突飛だ。
「そう、なんだ…」
突然の言葉につかさは、反射的にカウンターが気になった。真田がいないことに安堵するも、そうする自分が妙だとも感じていた。
「あら、いいんじゃなくて? なにも、自分が産まなくても母親にはなれるのですもの。いろいろ事情は変わってくるでしょうけれど」
意外にも玲は肯定的だった。
「でも、でも、織ちゃん…」
無意識にカウンターを見てしまうつかさ。そんなつかさを遮るように、
「旦那どうすんの?」
概要を知っているとはいえ、まだまだ話し合わなければならないことが山ほどある真実にも、突っ込みたい気持ちは抑えられなかった。
「そ、そうだよねぇ」
真田以前に、まだ夫の存在があることを忘れていたことに、つかさは自分の胸を軽く突いて制する。
「え、一緒に育てる…の?」
だが、それは「だれと?」とまでは聞けない。
「離婚、すると思う。うぅん、離婚したい
ここで初めて、織瀬は離婚の意思があることをきっぱりと告げた。
「気持ち、決まったのね」
と、意志の固さをうかがう玲に、
「ひとりで育てるってこと? それとも…」
それとも…なにを言おうというのか、つかさは自分の言葉に躊躇する。言葉を選ぼうにも、すべてがはっきりしているわけではないのだ。
「うん。ひとりで育てるつもり」
「でも。それって、難しいんじゃないの? よく解らないけど…」
無意識に真実を見遣るつかさ。
ひとことで「養子を迎える」と言っても、どういう手続きがなされるのか普通に生活している者にとっては未知だ。
「まぁそうだな。厳しい審査がある」
「だよね…養子って、子どもを引き取るの? それとも…」
そこまで言われて織瀬は、不用意に言葉を発してしまったことに後悔した。
「赤ちゃん…」
「赤ちゃん!?」
再びつかさが声をあげた。
だが玲にはどういう経緯でそういう話に至ったのかがそれでピンと来たようだ。ゆえに、
「そう…。これから大変ね」
それ以上の追及はしなかった。
「ぅん…。それで、今のマンションも引っ越そうと思ってて、そのことで玲にも相談したいと思ってたんだ。でもなんだか、今は頼める状態じゃないよね?」
話を持ち掛けておいて…と、織瀬は申し訳なさそうに眉をひそめた。
「あら、仕事とプライベートは別よ。年内に片付けられるよう努めるわ」
「ほんと? ぁ、でも無理はしないでね」
「お気遣い痛み入るわ。でも、私もプロですからね」
「うん。ありがとう」
「はぁ…なんだか。すごい話になってきたね、玲も、織ちゃんも」
つかさはここ最近で一番胸を騒がせる問題に、その場を飲み込み咀嚼するだけで精一杯のようだった。そして、どちらにも無関係ではない真実は、ただ押し黙って聞いていた。

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「つかささんは、玲さんにとってどんなポジションだったんですか?」
開店以来すっかり常連気取りの自称「玲のファン」のハウスメーカー勤務〈秋山忠征(ただゆき)〉は、性懲りもなく今日も愛犬〈レオナルド・マイルド〉を胸に抱き、つかさのトリミングサロンにやってきていた。
「ポジション…?」
「あ~っ…となんでしたっけ。なんとかの…って、言われてるんですよね?」
入り口付近に突っ立ったまま、くるそうそう店内に客がいないことをいいことに、なんの意図があってかつかさを質問攻めにする。
「なんとか…って?」
大した用でもないだろうと受け流すつもりのつかさは、店内を動き回りながらやり過ごしていたが、
「あ~。え~っと…お~、ぉ? オスカル!
(…え?)
秋山の口からは到底あり得ない言葉に動きが止まる。
「玲、そんなことまで話してるの?」
棚に並べていた試供品のドッグフードを取り落としては拾い上げた。
「いや、玲さんというより…綾香ちゃんが」
「あぁ、事務の子…」
不倫の末の進退はどうなったのか、あれ以来すっかり話も持ち上がらなくなった。
「もう20年も前のことよ? そんなこと聞いてどうするの?」
かがみこみ、足元にある段ボール箱から試供品のドッグフードを掴んで棚に並べ始めた。
「まぁ、そういちゃそうなんすけど…」
口ごもる秋山は、営業には致命的なうろたえぶりに自分でもなぜそうなってしまうのかが解らないようだった。よくよく考えてみれば玲の前だとて、綾香の合いの手がないとどうにもスムーズに言葉を運べていなかったようにも思う。
「落ち込むなぁ…」
つかさの働く姿を眺めながらそう小さくつぶやく。
「なに?」
その声にこちらをうかがうつかさの視線は秋山を通り越し、
「あら、玲…?」
えっ!?
言われるままに振り返り、つかさの目線を追えば、店の駐車場の先に真っ白なファーのコートがこちらを目指して歩いてくる。
「どうしましょう…」
入口に向かってくるつかさに、頼りない声を掛ける。
「え、なんで?」
別段悪いことをしているわけでもなければ、見られて困る状況でもない。頓着しないつかさには秋山の心意などまったく読めるはずもなく、ドアを開けた。
「いらっしゃい…」
いつもどおりが憎らしいほどにつかさの涼し気な姿は潔い。
「なに? 秋山君、さぼり?…っていうか、入り浸ってるの?」
店内に足を踏み入れるが早いか、玲はまず秋山に目を止めそう言った。
「そ、そんなことないですよ。今日はぁ~あれですよ、爪切りです」
とっさに抱きかかえてる愛犬を突き出してみるが、そうする自分の体は玲から2歩下がっていた。さらに、
「え、先週、シャンプーの時に切ったよね…?」
バツが悪いことに、すぐ脇のつかさにあっさりと否定される。
「え? あ、それは耳…じゃなかったですか?」
途端に顔を赤らめ、愛犬を抱く腕に力が入る。次の言い訳を繰り出すも、
「いや、耳もやったけどね。基本のトリミングメニューは全部やってるよね?」
と、これまたなんの意図も感じていないつかさには、秋山のその狼狽した態度に「実はクレームに来たのか?」と逆に不信感を抱かせる。
「あら~秋山くん。そのかわいらしいワンちゃんは…つかさに会うための口実なのね」
腕の中で落ち着かない愛犬を抱え直す秋山を、意地悪くからかう玲。しかし、
「や…っそのっ」
ますます顔がゆでだこのようになる言葉のない秋山よりも、
「やぁだ! 玲、そんなわけないじゃない」
思いのほかつかさの方が過剰に反応し、玲の肩を叩いた。
「え?」
当然玲には想定外で、
「え?」
鈍いつかさはそれすら気づかず、
えーっ!?
今度は玲が口元を抑えて過剰反応を示す。
「え? どういうこと?」
わけが解らないままに秋山を見遣るが、当の秋山は既にここにいることすら苦痛なのか「で、では、ぼくは…」と、しどろもどろに後ずさりしながらドアを開け、
「この先のマンションの展示会場に行きますので…。また来週伺います!」
下手な言い訳をし、だが「また伺います」と予告をしっかり忘れない。勢いよく頭を下げてそそくさと店を出て行った。
「はぁ…なんなの、あれ」
面白いひと、またくるんだ…と、笑いながらカウンターに入るつかさに、
「解ってない…のね、つかさ」
呆けた顔のまま玲は吹き出す。
「え?」
「ワンちゃん連れて、展示場に行く気かしら」
笑いをこらえながら秋山の車を見送る玲は、決して「展示場には向かわない」だろうと予測してその行き先を見守った。
「ホントだね」
のんきな言葉を返すつかさに、
「お気の毒様…」
「え、なぁに?」
「いいわ、ゆっくりやってて」
ゆっくり…と言われたつかさは、特に急ぐ用もないことから、玲の気遣いだろうとそのままを受け止め、
「あぁ、急に玲が来たから、彼、緊張しちゃった?」
頓珍漢な返しをする。
「緊張には変わりないと思うけれど、半分間違ってるわよ」
真顔で答える玲。
だが。それすらもつかさには通じない。
「今日はなにか…? 忙しいんじゃないの、玲」
と、なんの疑いもなく返す。
「あぁ…」
玲もそれ以上の突込みはせず、
「なんだかね…。家の中がピリピリしてるし、仕事が手につかなくて。気分転換に買い物でも…と思って出たんだけれど落ち着かなくて。特に急いでもなかったんだけれど…近くまで来たから寄ってみたのよ」
「まぁ、大変だよね」
週末の玲の様子から気持ちを察するつかさは「そりゃそうだよね」と言葉もない。
「思ったより堪えてるみたい」
玲には珍しい弱音を吐く。
「それより玲は大丈夫?」
「なにかしら?」
「その、旦那様の機嫌は直ったの? ずっと気になってたんだよね。こないだ言ってた『おもちゃ』って、あの部屋のことだよね?」
「あぁ、えぇ。そう、ちょっと難航しているけれど…今は羽子のことでそれどころじゃなくなったわ」
「でも…結婚記念日にもらったお部屋でしょ?」
「そうだけれど。あなたにここを進めるとき、もう潮時だと思っていたのよ。だから、内装工事と並行して、上の部屋も片付けたの。それに、この先の建設中のマンションが出来上がればこの辺の様子も変わるだろうし。マンションも御門(みかど)の持ち物だから、どちらにしてもここはもう限界だったのよ」
それは先程、秋山が「展示場に向かう」と言っていたマンションのことだ。
「主人も、理解してくれていると思うわ。ただ、無断でやったことが気に入らないのね。男のひとって、そういうところ面倒」
窓の外に目をやり、たった今自分が歩いてきた道のりをしみじみと眺めた。
「確かに…」
「それよりつかさはどうなの? 例の彼とは、」
「彼?」
つかさの中で「終わったことは既に頭にはない」といった様子だったが、
「あのあと。…ずっと気になっていたのよ、ほら」
ついでのようでなんだけれど…そう言って玲はマンションの上階の方を視線で促した。
「あぁ、圭ちゃん? うん、まぁ」
その仕草で、先日玲のプライベートルームで聞かされた圭慈の話だと理解した。
「電話でするような話でもないし、この間は私のことでそれどころじゃなかったから。…あれから彼とは会ったの? 余計なことだとは思ったけれど、もしこじれてしまったのなら私にも責任があると思って」
玲なりにつかさを心配しての今日の訪問だった。
「それでわざわざ来てくれたの?」
「それだけじゃないけれど…」
玲はつかさを思いやり、あくまでも「ついで」なのだと匂わせた。
「うん。ありがとね」
それはつかさにも充分伝わっていた。
「やっぱり…うまくはいかなかった?」
申し訳なさそうな顔をする。
「そうじゃないの。その説はありがとう。玲のおかげで今ではいい飲み友達だよ」
心配しないで…とつかさは小さく微笑んだ。
「あら、よかった」
それには玲もほっとしたようだった。
「うん。結局、例の件について詳しい話はしなかったんだけどね。だいたい察しがついていたみたいで、もうそれだけで充分だと思って、あたしもそれ以上例の件については触れないでおこうかと」
「そう…」
「それにね…お互い、両思いだったよ」
くすりとわらって、あっけらかんと言い放つ。
「でも…?」
それ以上に言いたいことがあるのではないかと示唆する。
「でも、別に。それだけ」
「それだけ?」
「うん。あたしたちの関係はこれまでと変わらないってこと。それは恋愛感情や肉体関係じゃなくても成立するのかなって、」
「友だちってことかしら?」
それもつかさらしいと納得する玲。
「うん。それ以上、かな。結局あたしもどうしたいのか解らなかったし、このままがいいかなって結論。圭ちゃんの秘密を知ったからって、これまでの圭ちゃんが変わるわけじゃないし、同士って感じ? それは圭ちゃんも同じみたい。もともとそういうことを求めていたわけじゃないし、初恋は…きれいなまま思い出として。今は、同じ記憶を持つ仲間って感じかな?」
つかさは小首をかしげ、うまく言えないけど…と付け加えた。
「つかさ自身に恋愛感情がないってこと?」
「うん、そうみたい。ほら、あたし男兄弟しかいないじゃない? だからかな、男の人に対して…織ちゃんみたいな可愛さが欠けてるみたい。玲みたいな駆け引きなんてもっと無理だし」
「そうみたいね」
こちらは思うところがあるのか、含んだ言い方をする。
「なんていうか恋愛体質じゃないのかな? 1対1のつきあいがよく解らなくて」
「今さら?」
「そう、今さら。…この先『はじめまして』からの恋なんて考えられないし、そんなことに時間を費やすよりあたしは、気の置けない男友だちとのつきあいの方が面倒がなくていいのかなって。それに、あたし自身それを求めていたわけじゃないってことに気づいたから」
「それは肉体関係ってことかしら?」
「うん。もう子どもを作る必要性もないしね…子どもを作らないなら、その行為もいらないかなって」
「淡泊なのね」
「だね…へんかな?」
「そんなことはないと思うけれど…。それじゃぁ、秋山くんにもチャンスはあるのね」
玲は小さく口の中で答えた。
「え? 秋山くんがなに?」
淡泊なつかさにはその意味がよく解らないようだった。
「ねぇ、つかさ。彼、よくくるの? 秋山くん」
玲は改めて訪ねた。
「え~そうでもないと思うけど…?」
カウンターに置かれた予約表をめくりながら、どうだろ…と答える。
「でも先週も来てるんでしょ」
そうでもない…答えに玲は楽しそうに返す。
「そう…だね。そういわれてみれば」
「あなた、本当に解ってないの…?」
玲はついつい笑みをこぼす。
「え? なにが?」
そうまで言ってもつかさには、さっぱり伝わらないようだ。
「秋山くんも、つかさが相手じゃ大変ね」
「え? どういうこと。あたしちゃんと仕事してるよ?」
「解ってるわよ、私は」
「そう? なら、いいけど」
どこまでもマイペースなつかさであった。



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