沖縄記(11月10日、11日)

沖縄県知事選について書かないかと言われ、脊髄反射的に「書きます」と答え、途方に暮れながら沖縄に行き、現地の人の話を聞いて記事を書いた。

非当事者が何かを書くときにはいつもものすごく緊張するし、怖い。ホッとしているのは、地元の人たちのTwitterでもこの記事について「よく言った」という声が多いこと。というのも、僕はこの類のことを書く時、当事者がどのように感じるのかを一番大切にするからだ。その意味では及第点なのだろう。

さて、でも、記事には書けなかったこともたくさんあるので、書き散らすことになるが、沖縄の一泊二日旅行のことを書いておきたい。

ポリタスに記事を書くと決めてから、すぐにフライトを予約。途上国出張に行きまくっているので、すでにマイルは30万以上溜まっている。18,000マイルで那覇までの往復チケットを取得。羽田午前6時30分発の飛行機で那覇に向かう。

那覇についたのは9時過ぎ。当日ご一緒する写真家のHさんに電話をする。美栄橋駅まで来てくださいとのこと。朝ごはんも食べていなかったので、空港内の沖縄そば屋え沖縄そばをささっと食べて、モノレールで美栄橋駅まで向かう。

Hさんの写真集は既に読んでいて、どんな人なのだろうと緊張しながら会ったのだけど、予想以上に気さくなお兄さんだった。レンタカーを借りて、移動を始める。車にのるのは先日レンタカーで日光までドライブに行ったきりだ。不慣れな運転でHさんに死の予感を覚えさせてしまったのではないかと不安になる。

最初に案内されたのは地元の海岸。本当にきれいな海で、歴史ある神社まであるのに、そこに明らかに不要な橋がかかっていて、景観が台無しになっていた。Hさんは「沖縄には美しい海がありふれているから、地元の土建業者の所得のためにこういう建設がまかり通ってしまうことがある」と話していた。何とも皮肉な話だ。

まだ時間があったので、辻という那覇市の風俗街を車で移動する。びっくりしたのは、まだ昼前であるにもかかわらず、すでに客引きのおじさんたちがたくさんいて、車で移動する僕たちに営業をかけてきたこと。さすがに風俗街にしては客引きが早過ぎる気がするのだが。

次に、沖縄の中心部で知事の仲井眞さんの応援演説らをきく。皆口をそろえて言うのが「普天間基地の危険性の除去」。これがマジックワードなのか。次に移動する車の中で、Hさんは「あれは詭弁ですよ」と話していた。今日は岸田外務大臣が応援演説をしているのだけど、聴衆はまばら。昨日の小泉進次郎議員のときは大勢の人が駆けつけたらしい。

そう話しながら向かったのは普天間。嘉数高台公園から普天間基地を眺める。海にちかい場所に基地がドーンと鎮座している。高台からいざ見ると、海との近さが目立った。

この嘉数高台公園も昔の戦場後で、防空壕が残っていた。高台は防衛の拠点になるので、沖縄の高台には必ずといっていいほどに防空壕がセットでついている。防空壕には格子がはまっていて中には入れない。岩には銃弾の跡が残っていて、生々しい。

このあとは普天間基地を回る。後でも話す世間話を通じて知ったのは、普天間基地の特色は、民有地が多いこと。それはすなわち、基地があるために毎年基地に対する家賃として多くのお金を受け取っている人が相当するいるということでもある。

「基地経済」の規模は本当に大きい。仮に、基地があることによって生じる補助金その他政府からの資金が数千億円だったとしても、それは乗数効果を通じてより多くのGDPにつながっているはずだ。この日の夜に出会ったある人は、基地経済の実際のGDP比率は50%程度ではないかと話していた。すなわち、基地がなくなったら生活が成立しない状態というわけだ。コザという街では、ベトナム戦争時には毎日のようにベトナム出発前で「明日は死ぬかもしれない」と考えていた米兵が酒盛りをしていたので、当時ここで飲み屋をしていた人の多くがそのお金で家を建てたという。しかし、米軍による暴行事件後に、米軍の外出規制が強化された後に、この街はみるみるうちに衰退していった。

こういう経済的なインセンティブがあっても、普天間基地移設に反対しているのは、これが経済性の話ではなく、自決権の話だからだ、というのが分かったのは夜中になってのこと。このことはポリタスに詳しく書いた。

普天間をぐるぐる回って戻ってきたら、もう夜。「まつもと」という地元で有名な豚しゃぶ屋でHさんとご飯をたべる。豚しゃぶは油がいっぱいだけど美味しかった。普段節制しているのだけど、今日ぐらいは良いだろう。

ご飯を食べてから向かったのが麗王という地元のスナック。大阪出身のママと、野村證券出身のHさんの話からたくさんの学びをもらった。スナックという場所は情報の宝庫だ。ありとあらゆる人がそこにやってきて、色んな話をしていく。それを聞いているうちに、その街のことが見えてくる。

基地問題以外で一番記憶に残ったのは、沖縄の社会的養護の問題。沖縄はできちゃった婚が結婚の半分近くで(だから沖縄県の出生率は全国一位)、その後離婚する夫婦も多く、結果として母子家庭で育てられる子どもがとても多いとのこと。母子家庭だと、親は夜の仕事につくことになることが多く、結果として、このスナックの路地裏をちょっといくと、無認可の保育園があるのだという。1時間数百円で子どもを預かってくれる場所。

もう一つ記憶に残ったのは、彼ら彼女らが、「この街では、頑張っている人が足を引っ張られる構図にある」と言っていたこと。そのために起業率も低く、起業したとしても長く続かないケースが少なくないのだという。「その一番の理由は、この補助金である」とある人は喝破していた。

ちなみに、この補助金があるために、沖縄経済においてはナショナル企業が地元企業に敵わないという現象が起きている、という話を聞いた。国内大手証券会社や銀行で口座はつくらず、地元金融機関でつくる。読売・朝日・日経を読まず、地元新聞を購読する。多くの取引は地元の関係性を理由に生じていて、それから外れようとすることにはものすごく勇気がいるのだという。こういう狭いコミュニティでよく起こることではあるものの、自分がいた在日コリアンのコミュニティを少し思い出した。

でも不思議なのは、沖縄県で頑張っているひとは、みな沖縄の悪口をいうのに、それでも沖縄を愛していることが言葉の端々から感じられることだ。愛憎の感情は本当に近いところにある。どんなに批判をしてみても、故郷は故郷であって、そこには郷土愛がある。

2時半まで飲んで、ホテルで眠ったのは3時過ぎ。

翌日7時半には起きる。寝ている時に嫌な夢をみた。それは、クラスの人達がイジメに直接・間接に関わっているのに、それに対して全く無頓着なこと。僕が「これおかしいでしょ」と言っても、冷笑が返ってくるだけだった。

風呂に入り、出発。泊まっていたホテルはルートイン。ちょうど一年まえに本州横断マラソンをしていたときに、一番お世話になったホテルで、ここに泊まるだけであのときのことを思い出す。基本的に痛い記憶だけだけれども。

Hさんは僕を見送ったあとに再びスナックに戻っていったので、どうせ眠っているだろうと思い、朝から一人で辺野古に移動する。キャンプ地を見て、ゲート前で籠城している人たち、海辺にテントをはっている人たちからお話をきく。自分も大学生の頃にこういった市民運動に参加していたからなおさら思うのだけど、本当に変化をもたらしたいのであれば、もっと色んな方法がある気がしてならない。

その後は、美ら海水族館に寄り、ジョギングで道を走り抜け、お目当てのジンベイザメだけを見たらまたジョギングで車に戻る。

次に向かうのはひめゆり平和祈念資料館。数々の資料よりも、記念館の前に残っている大きな防空壕が全てを物語っている気がした。このくらい中ではたらいていた子どもたちは、一体何を思ったのだろう。

その次に向かったのは海軍壕公園。昔の沖縄守護戦における日本軍の拠点があった場所。山を繰り抜いて作られた防空壕には、言葉で形容しがたい迫力があった。

夕暮れになる頃、最後に向かったのは首里城。警備員さんの着ている民族衣装や城のつくりをみて、これは明らかに日本よりも中国文化の影響が強い国なのだという印象を受けた。

そうこうしているうちに、あっという間に夕方。感慨にひたったり考え事をする時間もないまま、Hさんに最後に会い、Hさんが推薦する本を買って空港に向かう。

飛行機の中では沖縄本を読んでいた。物事を理解しようとしたら、この順番をとるのが一番なのだと思う。本を最初に読んでしまうと、知らず知らずのうちにフレームがついてしまい、事実をありのままに見るということができなくなってしまう。まず体験して、そこから知識に触れるのが一番だと思う。


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