生命知としての場の論理

生命知としての場の論理

生命科学の研究者である著者は、生命の特徴は、場において常に知を創造しつづけることにあると解く(特に単細胞生命でなく、哺乳類のような生まれてくる個体数が少ない、それゆえに個体の生存確率が高くないと種を維持できない生命について)。人工知能のように、予め全ての場合を記述しておかないといけないプログラムと異なり、人間の知性は常に変化し続ける環境(場)において、情報を獲得をしながら(知を創造しあんがら)柔軟に対応していくことができる。それは例えば、生まれて初めてライオンを見たとしても、人はそれを危険な生き物と察知できるように。

こういった営みを行えるのは、人間の脳には自分を自分そのものとして認識する機能と、環境の中において自分を環境との関係性において客観的に認識する機能の二つがある、と著者は主張する。前者は自意識、後者は自己客観視ということもできるだろう。特に重要なのは後者で、それはいうなれば禅の思想や多くの宗教が説く自己抛擲に他ならない。

この二つの認識機能を組み合わせて、絶えず知を創造し続けること、学習し続けることは、人間が生きていく上で重要な役割を果たす。それはジャングルのような場所での生存にとどまらず、人が市場の中で経済活動を行って行く際にも同様であると著者は解く。宗教の古典まで立ち戻ると、個体としての自意識を保ちつつ、過度の自意識から距離を置くことの大切さが説かれはじめてからもう2000年以上が経っている。これはかなり骨太な真理なのだと僕は思う。

その境地に至るための方法論が何かを著者は科学者として模索し続けた。その過程で著者が辿りついたのが、上泉伊勢守から始まり、柳生石舟斎、兵庫助が継承・発展させた柳生新陰流だった。柳生新陰流の境地を引き合いに出しながら、著者は人間が変化し続ける場においてどのように知を創造し続けるかについての動的モデルを記述しようとしている。

なぜ剣道だったのかというと、それはもともと文字通りの真剣勝負、すなわち失敗が死を意味する場所でいかにして知を創造するかについて考え続けた結果につくられた方法論・思想の体系であると著者は考えたからだ。日本に古来から伝わるもので「道」と名のつくもののほぼ全てに禅の思想が浸透しているものの、真剣勝負をする人々ほどに懸命にこの問題について考えた人は確かにいなかっただろうと思う。

本書は約20年前の本だ。最先端の人工知能研究において、人間らしさをどのようにプログラムするかについて僕は知らないが、著者の立論そのものについてあまり反論は思いつかない。

でも、一つだけ著者に対して意見することがあるとすれば、僕が拙著でくどくど書いたように、ここで著者が話している知は身体知であって、もし柳生新陰流を語るのであれば実際にそれを何年かやってみる必要があるのではないか、ということだ。

禅について科学的な見地から詳述する本は少なくないが、これだけの内容をもった本書がオイゼン・ヘリゲルの「弓と禅」になれなかったのは、著者独自の用語の多さによる読みにくさもさることながら、著者自身が柳生新陰流に入門しなかったことにあるのかもしれない。もちろん、科学者は多くの場合頭で仕事をするわけだが、東洋的な身体知のあり方を説く著者自身が、実際に柳生新陰流に入門し数年・数十年をかけてその境地を学ぶということをしなかったことが、本書の主張の迫力を若干減じる結果になっているのではないだろうか。本書には、当時の柳生宗家との対談も入っており、それによってある程度補完はされているものの。

自意識からの脱却は20代後半でテーマになって、ウルトラマラソンとの出会いを通じてなんとなく身体でその感覚が分かるようになってきた。でも先日ある阿闍梨さんと話をしてから、自分がいる場所がまだ入口でしかないことに愕然としたのが昨年末のことだった。何らかの「道」がつくもので、かつ身体を動かすもの・硬派なものに取り組みたいと思っていたのだけど、剣道を始めようと思った。



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