禅問答とググること

先日和尚さんと禅問答の話をしていて、なるほどなと思ったことがあった。禅問答にはたとえばこういう質問がある。

「夜空を見てみろ。星はいくつあるか」

こういった質問の答えは門外不出となっているものが多いそうだ。なぜ答えが出回っていないのかというと、禅問答が修行僧に求めているものは自分で腹落ちするまで深く考えて納得した答えを出すプロセスにあって、答えそのものにはないからだ。逆に言えば、答えが分かってしまうと本気で考えるプロセスが失われてしまって、それは修行にとって有害でしかないというわけだ。

このことを聞いて、ふといつもググッてしまう自分のことを考えた。我が家には「分からないことがあればその場で辞書を引いて調べる」という教えがあって、たとえ食事時間であっても分からないことがあれば広辞苑を持ちだして調べるということが家訓になっていた(というか、父がそうせしめていた)。それと同じ要領で今はふとしたときにググっているわけだが(例えば今日は運動量も食事量もほぼ同じなのに、やけにお腹が空く日と全然空腹にならない日があるのはなぜなのかについてググッていた)、毎回そうしているうちに考える力が失われていくのかもしれない。

ググったほうが良いものもあることは確かだが、いつもググッてばかりいると、人生や仕事における大切な問いについても腹落ちするまで考えずに誰かに聞いたままに結論を出してしまいやすくなるのかもしれない。そして、それは非常にまずいことのように思う。なぜなら、こういった大切な問いの多くは正解が無いことが多く、だからこそ自分が心底納得するまで考えた結果辿り着いた自分なりの確信や信念に根付いた行動力が、自分の答えを正解たらしめる確率を高めている可能性があるからだ。だからこそ、こうやって答えの出ない問題について、文字に起こして自分なりの確信を得ていくという作業は、とても重要なことなのではないだろうか。

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