天啓とウロボロス

前史
 竹本健治『囲碁殺人事件』(河出文庫)解説で、中井英夫は「竹本健治が『匣の中の失楽』で颯爽とデビューしたのは、弱冠二十一歳のときで……(中略)……『囲碁殺人事件』、そして『将棋殺人事件』と『トランプ殺人事件』を書き下ろしで刊行したときは、若いミステリーファンの歓声はさらに昂まった。それは笠井潔の『バイバイ、エンジェル』から『サマーアポカリプス』、そして『薔薇の女』と続く、いずれ劣らぬ力作が立て続けに刊行されたことに相俟て、探偵小説の新時代を予感させるに充分だった。」と書き、以降『虚無への供物』の著者の後継者として、様々なミステリー評論で、竹本健治と笠井潔の名前が併記されるようになる。
 ここで、参考までに関係データを挙げてみよう。
1954年 洞爺丸事件(『虚無への供物』成立の鍵となる事件)
1964年 塔晶夫(中井英夫)『虚無への供物』刊行。アンチ・ミステリーの語源となる。
1970年 三島由紀夫自刃。(この事件は、笠井潔の『天啓の宴』に影響を与えた。また、三島の『奔馬』は、笠井の『復讐の白き荒野』に影響を与えている。但し、『復讐の白き荒野』で主人公は、日輪に背を向けて自刃している。)
1972年 あさま山荘事件(この事件は、大江健三郎の『河馬に噛まれる』に影響を与えた。また、一連の連合赤軍事件は、当時マルクス主義活動家であった笠井が、マルクス葬送派に転向する契機となる。笠井は単身パリに向かい、評論「観念論」(後の『テロルの現象学~観念日批判論序説』)と「バイバイ、エンジェル」の下書きを書くことになる。これ以降、笠井は活動家としての名前「黒木龍思」を封印する。)
1978年 竹本健治『匣の中の失楽』刊行。(小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラマグラ』、中井英夫『虚無への供物』に次ぐアンチ・ミステリー第四の高峰と看做されるようになる。)
1979年 笠井潔『バイバイ、エンジェル』刊行。矢吹駆シリーズの第一作となる。
 後に、竹本健治によるメタ・ミステリー『ウロボロス』シリーズに対抗して、笠井潔が『天啓』シリーズを書くことになるのだが、その背景を理解するためには、<マルクス葬送派>としての笠井潔とポストモダニズムの関係を探っておく必要がある。つまり、笠井の眼には『ウロボロス』シリーズは、かつてのポストモダニズムのミステリー版に映ったということである。

 笠井潔は、かつて黒木龍思という名前で『拠点』、『革命の武装』、『情況』、『構造』に評論を投稿していた頃、いいだももの党派に所属していた。転向の契機は、連合赤軍事件であり、この事件はマルクス主義が、必然的にテロリズムに転化するのか、というアポリア(難問)を提起した。笠井潔は、このアポリアを解く為に、観念による観念の体系の批判を企てる。これが『テロルの現象学』であり、「観念批判論序説」と銘打たれたこの作品は、その後「第一部 芸術論(テクストの現象学)」「第二部 エロティシズム論(エロスの現象学)」「第三部 革命論(革命の現象学)」と書き続けられる計画であったが、ソ連の崩壊と東欧の自由化により、マルクス主義の抑圧体系がなくなり、途中段階で放棄されることになる。(執筆途中であった「テクストの現象学」については、『秘儀としての文学~テクストの現象学へ』で公開されている。)
 笠井は、これにより戸田徹、小阪修平らとともに、<マルクス葬送派>と看做されるようになる。これは、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を読んで転向した元フランス五月革命の闘士であるアンドレ・グリュックスマンの『メートル=パンスール(邦題:思想の首領たち)』、『料理女と人食い(邦題:現代ヨーロッパの崩壊)』、ベルナール・アンリ=レヴィの『人間の顔をした野蛮』らの<ヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)>の日本版であった。
 ところで、この<ヌーヴォー・フィロゾフ(新哲学派)>について、ポスト構造主義者たちは、どのような評価をしただろうか。ジル=ドゥルーズは、「ヌーヴォー・フィロゾフについて」(『現代思想』総特集ドゥルーズ=ガタリ 青土社1984.9)のなかで、彼らは哲学的に無内容であり、単
に知のマーケティングで成功したに過ぎないとこき下ろした。日本のポストモダニズム(ニュー・アカデミズム)は、基本的にこのドゥルーズの見解に組していた。
 (なお、ミッシェル・フーコーは、マルクス主義の克服の問題意識の関係で、ロラン=バルトは新しいエクリチュールの創造という観点から、このヌーヴォー・フィロゾフに一定の評価を与えているのも確かである。)
 日本のポストモダニストと笠井潔との対立点は、主としてジョルジュ・バタイユをめぐってなされた。
 浅田彰の『構造と力~記号論を超えて』は、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』を「構造とその外部の弁証法」に分類するとともに、「構造とその外部の弁証法」では、資本主義を変革するためのパースペクティヴをうちだすことはできないとしたのである。つまり、あらゆる質的差異を貨幣という量的差異に差異に還元することで、構造の外部を内部にエクスプロイット(開発=利用=搾取)してゆく資本主義は、構造を解体すること自体を構造化した制限された脱コード化社会であり、外部からの侵犯をなしくずしにしてしまうというのである。
 『構造と力』で浅田彰が持ち出した資本主義の「クラインの壷」モデルは、いまなおバタイユにこだわり、外部からの侵犯に賭けようとする文化記号論の論客たちを殲滅するための武器であった。「クラインの壷」の特性は、外部と内部をなし崩しにすることにある。
 では、バタイユ派の論客とは誰か。『構造と力』の攻撃目標は、名こそ挙げていないが、『幻想としての経済』でカール・ポランニーの経済人類学に、バタイユの普遍経済学(「過剰-蕩尽理論」)を導入した栗本慎一郎にあった。一応「構造とその外部」で、山口昌男の「中心-周縁」理論やクリステヴァの「ル・サンボリックとル・セミオティックの弁証法」が挙げられているが、一番の攻撃目標はジョルジュ・バタイユであり、バタイユといえば栗本なのである。(山口についていえば、軽快なフットワークで飛び回るとして、評価しているくらいである。)
 ところで、笠井潔は、栗本慎一郎との対談『闇の都市、血と交換 [経済人類学講義]』で意気投合し、栗本の著作『鉄の処女』では、著者名には記載がないが、全面的にバックアップしているくらいである。笠井のミステリー『薔薇の女』では、ジョルジュ・バタイユをモデルにしたジョルジュ・ルノワールなる人物が登場し、主人公の矢吹駆と哲学的な対話を交わすのである。笠井がバタイユ派なのは、まちがいがない。
 笠井の主著『テロルの現象学』は、マルクスを批判するために、ハイデッガーの現象学とバタイユの普遍経済学が導入される。ハイデッガーについては、『哲学者の密室』で放棄され、ハイデッガーに代わり、エマニュエル・レヴィナスが導入されるが、バタイユに関しては、現在も笠井の依拠する哲学として、依然維持されたままである。
 笠井は、吉本隆明の『共同幻想論』のモチーフをつかって、自らの哲学を組み立てる。吉本の「共同幻想」が、笠井の「共同観念」という概念となり、「共同観念」から脱落した者が「自己観念」を生み出す。(自己観念の生成は、<近代日本文学の起源>が重ね合わせられ、後の柄谷行人へのシンパシーを予感させる。)さらに、「自己観念」が肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪に
よってラディカルに転倒されることにより弁証法的権力の源泉としての「党派観念」が発生する。「党派観念」は、ソヴィエトの収容所群島、ポル=ポトの民衆虐殺、連合赤軍事件により屍を積み重ねてゆくが、観念の中に観念を浄化する「集合観念」が発生する。この「集合観念」は、バタイユ的な祝祭・蕩尽・暴力の噴出であり、笠井はここにマルクス主義を覆す可能性を
見ようとする。
 バタイユの弁証法について、浅田彰は『構造と力』で「日常においては禁止され構造から排除されていた部分、あの『呪われた部分』が祝祭において激しく爆発したあと、過程は何の意味もなく再び振り出しに戻る。以上のように、バタイユと共に我々が見出すのは、周期的な痙攣を伴なって跛行する、終局=目的なき弁証法的過程なのである」としている。
 これに対し、笠井は『テロルの現象学』で、バタイユは「グリュントゲーエンする廃滅の反・弁証法」であり、「弁証法を廃滅する弁証法」であるとする。その根拠として、バタイユの禁止と違反、生産と蕩尽、聖と俗といった二項対立の概念は、連続と非連続という反二項対立の土台の上にあり、単純にコスモスとカオスの弁証法に還元できないのだという。
 だが、笠井のこの主張は、社会学的観点からみると、どうなのか?笠井の革命論は『ユートピアの冒険』で示されるが、そこで展開されるのは電光石火革命論である。革命は、必然的に弁証法的権力に転化してゆくか、あるいは不発に終わるしかない。笠井は、これに対して不断の、刹那的な電工石火革命を説く。これが、社会哲学的に破綻した解決策であり、なんのパースペクティヴももたらしてくれない一か八かの解決策に過ぎないことは明白である。笠井はその後『国家民営化論』で、アナルコ・キャピタリズムに向う。警察も裁判所も民営化するというこの主張は、これまた空想的なものに思われる。
 『ユリイカ』1986.2のジョルジュ・バタイユ特集で、浅田彰と中沢新一が対談をしており、次のような発言をしている。
「浅田 (略)ヘタな神学ポルノの話にせよ大仰な儀礼の話にせよ、岡本太郎レヴェルとも言えるし笠井潔レヴェルとも言えるし、どっちにしたって低級な話だよね。
中沢 本当はもう片がついている話だと思う、ああいうのは。」
 西欧の神学体系と格闘した思想家バタイユ、ブランショ、クロソウスキーを比較すると、その戦略が鮮明になってくる。
 まず、ジョルジュ・バタイユの場合、ローマ=カトリックの三位一体、神と神の子とその母からなる三角形に対して、それを真正面から転倒させる、それが『無神学体系』(第一部内的体験、第二部有罪者、第三部ニーチェについて)の戦略ではなかったか。
 また、モーリス・ブランショの場合、ユダヤ教的否定性を用いて、一神教を零神教化してゆく戦略ではなかったか。この戦略は、エマニュエル・レヴィナスに通じるものがある。
 それに対して、ピエール・クロソウスキーの場合、一神教を複数化し、多神教のパロディとして上演される無神論を展開するのである。このシャルル・フーリエの系譜から来たいかがわしさこそ、ジル・ドゥルーズに継承されたものである。
 バタイユの場合、一神教の転倒をポーズとして示しながらも、一神教を保持している。逆説的に、裏口から一神教を導きいれるのだ。
 クロソウスキーの『ロベルトは今夜』から引用しよう。
「倒錯者である場合、その人は神を罵倒してその結果神を存在させることになる。つまり神を信じているわけだし、秘かに神に親しんでいる証拠であるとくるわけね!」

矢吹駆シリーズ註解
 思想家兼小説家としては、ジャン=ポール・サルトルという先例があった。サルトルにとって、書くことは生きることであり、それゆえ、自己の関心事を全面的に展開せざるを得なかったのである。
 では、笠井はなぜ思想家にして、ミステリー作家なのか。無論、サルトルの影響もある。笠井世代にとって、サルトルの影響は絶大である。
 しかし、哲学とミステリーには、深い符合がある。
 それは、「隠蔽-開示」の物語なのである。ともに隠されていたものが、露呈される物語なのである。
 ここで、四方田犬彦の『映像要理』を想い起こしてもよいだろう。『映像要理』は、哲学とミステリーとストリップが同一の物語の構造(いずれも隠蔽と開示の物語だ)を持っていると見破ったロラン=バルトから始まり、「女性は真理である」というニーチェの言葉に触発され、ディコンストラ
クション(脱構築)の果てに反哲学へと誘うジャック・デリダに結びつける怪著である。つまり、真理の魅力は、隠蔽されているから、ヴェールを剥ぎ取りたくなるだけで、もしも隠蔽されていなければなんでもないというのである。
 (笠井は、四方田の師匠格の蓮見重彦を仮想敵と想定しながら、このような物語批判を否定する。蓮見重彦は、『物語批判序説』や『小説を遠く離れて』の中で、現代作家の多くが、「宝さがし」のような紋切り型の物語に陥っているとして批判を展開する。これに対し、笠井は、人間が物語をつくりだす背景に、超越論的欲望を見出す。物語のシステム自体が、隠されているものが見つかるという子供だましに過ぎないにせよ、人間の超越への希求がある限り、物語をなくすことはできない、という。)
 笠井の矢吹駆シリーズは、エラリー・クイーンばりの大技のトリックをみせる端正な本格ミステリーである。作品は、最後まで計算され、最後のシーンから論理的に逆算されたはじまりから描かれる。
 これに対して、竹本健治の『匣の中の失楽』は、アンチ・ミステリーと呼ばれる。竹本健治の作品で、比較的普通のミステリーと看做される『ゲーム殺人事件(囲碁殺人事件・トランプ殺人事件・将棋殺人事件・チェス殺人事件)』ですら、丁寧に読んでゆくと、その解決のされ方に、本格ミステリーらしからぬ部分がみられる。端的にいえば、リニア(線形)の解決の拒否である。事件は解明が進むほど、混迷を深め、複雑系の様相を呈してくる。その複雑さは、小説の主題(人間の狂気、精神の昏い闇への憧憬)にふさわしい形をとる。
 笠井の場合、物語としてはリニアな解決をとるが、読了後、解決されない思想的アポリアによって、読者を考え込ませる特徴がある。
 笠井の理想は、マルセル・プルーストの手法で描かれたドストエフスキーばりの思想小説である。手法に関していえば、エンターテイメントの要請の優先で、うまく達成しているとは言い難いが、ドストエフスキーのような思想性を持たせるという点では、うまくいっている。ただし、このことは、その思想に価値があることを、意味するものでは断じてない。

 矢吹駆シリーズ第一作『バイバイ、エンジェル』は、笠井がパリで「観念論」(後の『テロルの現象学』)と同時並行で執筆された小説である。この小説は、当初純文学作品として構想され、その後ミステリー形式に方針転換された。(『テロルの現象学』も、当初は純粋な哲学書として構想され、その後主題に見合った文芸作品への論評でまとめてゆくという形に、方針変換された。)
 同時並行で進められた作品だけに、この両者は深い思想的関連性を持っている。(ちょうどカミュの『異邦人』と『シーシュポスの神話』、『ペスト』と『反抗的人間』と同じ哲学的並行関係がみられる。)
 『テロルの現象学』が連合赤軍事件との対峙がテーマであったように、『バイバイ、エンジェル』は永田洋子をモデルとする主人公が登場し、その背後にマルクスが想定される。
 ドストエフスキーの『悪霊』が無神論的革命思想に憑かれた人が、自滅への道を辿るのを描いたように、エピグラムとして書かれたローリング・ストーンズの「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル」の歌詞が、この物語も悪霊に憑かれた人間の物語であることを想起させる。
 憑くという以上、この悪霊は感染する。観念というヴィールスが、悪霊の正体なのである。感染によって、発病すると、肉体憎悪・生活憎悪・民衆憎悪という症状が出る。このヴィールスは、他の人に自分の複製を感染されるのが目的である。そのために、宿主がどうなろうと、宿主のまわりがどうなろうとかまわない。革命というヴィールスの死守だけが問題なのである。
 当初、この言語ヴィールスは、民衆のためにつくられたという神話がある。だが、民衆のための革命が、やがて民衆を虐殺する革命に進化してゆく。
 あるいは、この言語ヴィールスは、極限の自由をめざすといわれた伝説がある。だが、極限の自由を生み出すはずの革命は、極限の専制を生み出し、これを無限肯定する革命に転化する。
 笠井は、この認識を連合赤軍事件から得たという。
 これは、ソルジェニーツィンの『収容所群島』によって転向したパリ5月革命の元闘士の思想遍歴とパラレルである。
 いずれにせよ、マルクス主義は、必然的に収容所やテロルに行き着くという認識が両者にみられる。
 両者には、それが唯一のマルクス像であった。
 フランスのポスト構造主義者の中には、エビクロス→スピノザ→マルクス→アルチュセールという形で、唯物論を捉え、ヘーゲル的な弁証法と手を切ることで、別の開かれたマルクスの可能性を開こうとする試みもあったのだが、彼らはそれに注目することはなかった。
 パリの新哲学派は、その後マスコミに登場し、オピニオン・リーダーとなり、やがてフランスこそは自由の国であり、民主主義の手本であると主張するようになる。
 笠井の場合、吉本隆明の影響の延長線上で、縄文文化を基底に置くウラ日本史観に向かう。(ウラ日本史観は、吉本の説ではない。だが、『共同幻想論』なしに、共同体の外部への関心は生じなかったのも事実なのだ。吉本が関係性として理解したものを、笠井はSF的想像力で実体化する。ここに新たな観念の倒錯のはじまりがみられるのだが、それに気づくこともなく……。)
 矢吹駆シリーズの特徴は、主人公の探偵が現象学的本質直感によって推理すると言っている点にある。
この現象学は、フッサール直系のものであり、『現象学入門』や『現代思想の冒険』で知られる批評家竹田青嗣の現象学理解に近い(デリダ的現象学批判を否定する)。竹田は、フッサールとハイデッガーと井上陽水を神とする現象学者であり、笠井の盟友のひとりである。とはいえ、笠井に見られる神秘思想への関心は、竹田には見られない。笠井が『薔薇の女』で関心を
示したイスラム教の「スーフィー」を、竹田はその著作『意味とエロス』(ちくま学芸文庫・初版・19頁、改版後は修正されている。)の中でポストモダン系の思想家名と並列で明記して、バッサリ斬ってしまったことさえある。
 矢吹駆は本質直感について、<円いもの>を例に語ったことがある(『バイバイ、エンジェル』)。我々はこれは<円いもの>、これは<円くないもの>と識別するが、べつに円周率からの<円>の概念で判別しているわけではない。矢吹は、我々ははじめから<円>とはなにかを知っているからだという。我々はさまざまな<円いもの>を眼にしたり、触れることで、<円
>の本質直感をしているのだという。
 ここで、<円いもの>と<円くないもの>が出てきたが、矢吹はこの差異に注意を払っていない。あくまで<円いもの>だけから<円>の本質直感ができると思考している。
 ソシュール学者の丸山圭三郎ならば、ここで<円いもの>が認識されるためには、<円くないもの>が必要であり、その差異から<円いもの>というシニフィアン(意味するもの)のシニフィエ(意味されるもの)が析出されてくると考えるのではないだろうか。
 拙論「精神(ガイスト)の政治学」でも書いたことだが、白と黒という概念しかなく、灰色も黒の概念に含めて考える民族がいたとして、その人たちに灰色の意味を伝えるには、灰色のものをいくつならべてもだめで、黒いものとの比較で、初めて伝えられるのである。
 笠井の現象学理解を考えるために、彼のSF伝奇小説『ヴァンパイヤー戦争』を例にとって考えてもいい。この作品の中には、矢吹駆の変装した姿であるムラキなる人物と、矢吹の行動的分身としての九鬼という人物が登場する。(この対応は、カミュの『ペスト』におけるリウーとタルーの関係に相当している。)吸血鬼の実在をめぐって、彼らは直ちに認めるわけではないが、吸血鬼が実在するかのように事態が廻っており、その実在を否定してしまうと、現実の理解が不可能になり、自分の身を守ることすらできなくなることから、吸血鬼は実在するものとして行動することにするが、これこそが笠井の現象学的態度である。
 吸血鬼が主体の外に、客体として実在するかどうかは、この際、二の次である。問題は、吸血鬼が襲ってきたり、噛み付かれたりする可能性の方であり、これは現実問題である。(途中から九鬼たちは、吸血鬼の意図がわからずにいるが、途中から吸血鬼のグループと行動をともにするようになる。)したがって、主体の内の心的領域に受け止められる吸血鬼の実在感だけを真実のものとして受け止めようということである。
 この見解は、ジャック・デリダの『声と現象』に対立する考えである。デリダは、そうして認識された真実が、言語として表現される際に、齟齬が生じることに着眼し、フッサールの現象学の中に、ロゴス中心主義や音声文字中心主義を見ようとする。西欧の形而上学は、ロゴス中心主義や音声文字中心主義が基盤にあり、<自分が語るのを聞く>といった袋小路に陥ってい
る。フッサールですら、形而上学の閉域にあるという。形而上学は、外部を内部化し、それを撃つために、外部の土台を前提にするわけにはいかないと考える。こうして、彼は内部のロジックの徹底で、思考の体系にほころびを見出し、差異やズレを拡大される脱構築の戦略をとるのである。
 しかし、笠井や竹田の場合、テリダの意見には同意しない。
 笠井の場合は、神秘思想と結びつくことで、コリン・ウィルソンに近い考えにいたる。イヌマエル・カントの場合、物の認識の場合、先天的悟性形式に限定される。つまり、我々の五感から入ってきて、脳で処理されることに限定される。したがって、物自体は認識されない。エグムント・フッサールの場合、一歩進んで、意識はつねになにものかについての意識であるとして、意識の志向性を重視し、意識を物に向けることで、積極的に物の実在に迫ろうとした。これに対し、コリン・ウィルソンは意識の進化と拡大によって、物の本質や物自体を洞察できるにいたることが可能と説いた。笠井もまた、自己の超越によって、世界の鳥瞰が可能になると考える。
 ところで、観念の倒錯とテロリズムという必然的帰結をめぐるアポリアに思いをめぐらせるとき、次のようなテクストを連想するのは、私だけだろうか。
<あるとき「唯円房は、わたしのいうことばを信じるか」と云われましたので「おおせのとおり信じます」と申しましたところ「それならわたしの云うことに背かないか」と再度云われましたので、つつしんでおおせの主旨をうけたまわる旨申し上げましたところ「たとえば人を千人ころしてみなされや、そうすれば往生は疑いないだろう」と云われましたが、「おおせではありますが、一人でさえもわたしのもっている器量では、人を殺せるとはおもわれません」と申し上げました。すると、「それならば、どうして親鸞の言うことに背かないなどと云ったのだ」と申され「これでわかるだろう。何ごとでも心に納得することがあったら、往生のために千人殺せと云われれば、そのとおりに殺すだろう。けれど一人でも殺すべき機縁がないからこそ殺すことをしないのだ。これはじぶんの心が善だから殺さないのではない。また逆に、殺害などすまいとおもっても、百人千人を殺すこともありうるはずだ」と申されましたのは、わたしたちの心が善であるのを「よし」とおも
い、悪であるのを「わるい」とおもって「弥陀は、その本願の思量できない力によって、わたしたちを助けられるのだ」ということを知らない、ということを云われたかったのである。>(唯円『歎異鈔』一三、現代語訳は吉本隆明による。)
 仏教では、愛欲や金銭欲などの煩悩以上に大きな罪は、法(ダルマ)を改ざんしたり、捻じ曲げるである。なぜならば、法の改ざんは、衆生を誤った道に導くからである。親鸞は、人間は殺すべき機縁が与えられることにより、千人殺すことも可能になると考えている。ある種の宗教観念や政治思想は、殺人すら正当化する理論を打ち出している。これらが機縁として与えられる
ことより、人は百人千人を殺すこともためらわないようになる。これは、道徳の欠如とは関係がない。むしろ、まじめな善人に、これらのイデオロギーが植えつけられることにより、殺人は正義として、また自身に課せられた使命として、自己陶酔しながら、殺戮に邁進するであろう。

『バイバイ、エンジェル』について
笠井潔による矢吹駆シリーズの記念すべき第一作が、『バイバイ、エンジェル』である。
この作品は、首のない死体を扱った本格ミステリの傑作である。通常、首のない死体というと、被害者と加害者の入れ替わりがあるが、この作品はそのような一般解ではないエレガントな解決をしている。まずは、一級のエンターテイメントとして読まれたい。
さて、問題は探偵役の矢吹駆であるが、この探偵はフッサール流の現象学を推理に応用する哲学探偵なのである。この作品では、首のない死体について現象学的本質直感を行い、見事に犯人の計略を暴くのである。
この『バイバイ、エンジェル』は、笠井潔がパリ在住のとき『テロルの現象学~観念論批判序説』とともに書き上げられた作品である。したがって、内容的に重複する主題を扱っている。
『バイバイ、エンジェル』には、探偵小説としての側面と、思想小説の側面を持っている。このような特色は、ドストエフスキーの作品においてもいえることだが、この矢吹駆シリーズではエンターテイメント性が強化されている。
『テロルの現象学』で対決しようとしたのは、左翼テロリズムのアポリア(難問)である。この『バイバイ、エンジェル』にも、連合赤軍の永田洋子をモデルとする人物が登場する。笠井は、日本を離れる前、黒木龍思という名前でいいだももの主宰する新左翼のセクトに所属し、イデオローグとして活躍していた。しかし、それらの左翼思想が究極のところ連合赤軍事件のような際限のないテロルに帰結することを知った時から、フランスの新哲学派(ヌーヴォー・フィロゾフ)と呼応する動きをはじめる。
新哲学派とは、ソルジェニーツィンの『収容所群島』をきっかけに転向した元五月革命の闘士たちのことである。
笠井は、テロリズムに帰結する左翼思想に、空中楼閣的な観念論を見出す。そして、現象学という基盤から、これを撃つのである。
果たして、この試みがうまくいったのか。また、この論法に問題はないか、検証をせねばならない。
しかし、物事を考える上で、笠井潔の軌跡は格好のケーススタディーであることは間違いない。

『サマー・アポカリプス』について
笠井潔の矢吹駆シリーズの第二弾が『サマー・アポカリプス』(現在、創元推理文庫)である。一時期、角川文庫から刊行されていたとき、この本は版元の関係で『アポカリプス殺人事件』というタイトルにされていた。
私の場合、A県K市K駅前の書店で、竹本健治の『匣の中の失楽』(講談社文庫)を見つけ、一気に読了。かなりの興奮状態で、さらに日本のミステリを読みたくなり、A県N市T駅近くの書店で、文庫の厚みから、この本と前作の『バイバイ、エンジェル』(角川文庫)を購入した。『アポカリプス殺人事件』の文庫解説も、竹本健治となっており、『匣の中の失楽』の興奮が、再度味わえる予感がした。
この作者が、評論も書いていることを知り、同じ書店で『テロルの現象学』(作品社)も見つけ、その直後購入した。
『テロルの現象学』の帯には、この作品が埴谷雄高・吉本隆明らを継承する評論書であり、テロリズムのアポリアに真正面から扱った作品であることが明らかにされていた。
ドストエフスキーを尊敬していた私は、日本にもこのような作家・評論家がいたのかと狂喜し、この三冊を読みふけった。
『アポカリプス殺人事件』は、その後に続く『薔薇の女』を含め、矢吹駆初期三部作の中で、もっとも優れた作品である。この作品には、シモーヌ・リュミエールというシモーヌ・ヴェイユそっくりの魅力的な女性思想家が登場し、主人公の矢吹と対峙する。
シモーヌは、テロリズムが連鎖するこの世の地獄に対し、テロリズムで対抗するのは、自身が悪に転化することだとして、死をもって耐える。この自己犠牲的な態度には、晩年のヴェイユの姿が重なるようになっている。ヴェイユは「赤い処女」と呼ばれ、生ける聖女の顔を持っていた。暴力を否定しつつ、貧しいものの存在を思い、絶食をしばしば実行した。
これに対し、矢吹はドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフと同じセリフを口にする。
「すべてよし」と。矢吹は、この世に起きる暴虐を、すべて容認せよ、と聖女に迫るのである。このとき、矢吹には、メフィストフェレスの悪魔のしっぽが生えていたに違いない。
しかし、キリーロフは、ニヒリストであり、ドストエフスキーが克服しようとした無神論の極端なタイプである。神は存在しないといい、しかし神は必要であると説き、自身が神であると宣言し、それを告知するために自殺をしようとする。
とすれば、矢吹もまた、克服されるべきニヒリストではないか、と思った。矢吹自身も、自身を超えようとしていたが、私も、矢吹に出会ったときから、すでにこの人物を理想的人物ではなく、乗り越えるべき存在と受け取ったのである。

『薔薇の女』について
矢吹駆シリーズ第三弾が、『薔薇の女』である。この作品では、猟奇殺人が描かれ、被害者はバラバラにされ、犯人は複数の被害者の一部からひとつの肉人形をつくろうと企てる。
前作が、シモーヌ・ヴェイユを髣髴とさせる人物が出てくるとすれば、本作ではジョルジュ・バタイユを想起させるジョルジュ・ルノワールが登場し、矢吹とエロティシズムの問題や、過剰と蕩尽の問題を議論する。
この作品で、矢吹は将来目標とすべき生前解脱者の存在を知る。この人物は天使教育を受け、バルザックが『セラフィタ』で描いたような性すら超えた存在だったという。
ジョルジュ・ルノワールが、聖としての悪を語ったとすれば、この生前解脱者は聖としての聖を体現する人物である。聖としての悪とは、<強度(アンタンシテ)>崇拝、パワー崇拝を意味している。
しかしながら、本作で矢吹はこの生前解脱者と出会うことはない。未だ、矢吹がそのレベルに達していないからである。
前作の問題を矢吹は引きずっている。連作を通じての敵として、現代の虚無を体現するニコライ・イリイチがいるが、この敵を殺せば、矢吹自身が悪となるというアポリア(難問)である。それを回避するためには、矢吹が解脱する必要があるが、まだ機が熟していないのである。
解脱とは、こだわらぬことである。自己の生命への度し難い執着が、矢吹をニヒリズムという悪に留まらせている。
矢吹連作は、その後中期に入り、『哲学者の密室』、『オイディプス症候群』、『吸血鬼の精神分析』と続くが、どうやら矢吹がそこに到達するのは、まだまだのようである。
その間、矢吹は地上の暴虐を許し、「すべてよし」と罪なき子供の死を容認するニヒリスティックな言説を吐き続けるのである。

『ヴァンパイヤー戦争1吸血鬼ヴァーオゥの復活』について
1981年3月、中井英夫は『香りの時間』を大和書房より刊行している。この中に収録された
「黒鳥の死まで」で、中井英夫は今後の小説のプランについて書いている。
「『黒鳥座X1』で私が書くつもりでいるのは、もっぱら人間の内奥の暗黒だが……」その一年後の1月、笠井潔はカドカワノベルズより『ヴァンパイヤー戦争1吸血鬼ヴァーオゥの復活』を刊行する。
その冒頭で、次のように笠井は書いている。
「白鳥座X-1から、点と線からなる意味不明のモールス信号が地球に向けて発信されていたのだ。」

白鳥座X-1は、実在する。
黒鳥座X1は、自らの主題「黒鳥」と白鳥座X1をかけている。
ここであげた例には、深い意味関連はない。
ただし、黒の反転が白であるように、『ヴァンパイヤー戦争』は、人間の内奥の光を描こうとする。
「人間の内奥の暗黒」は、この小説の中で「ルビヤンカ監獄」として描かれ、(当初、笠井はこの物語をソ連の監獄の中のヴァーオゥの棺を奪還して終わりにしようとしていたが、途中から計画変更してアフリカまで舞台を広げてしまうのである。)やがてスペシネフという人物として造形されるが、笠井の主題は「人間の内奥の暗黒」ではなく、そこからの突破口にある。
そのために、笠井はコリン・ウィルソンのX機能や、グルジェフらのオカルト学説もこの小説の中に注ぎ込んでいる。(そうとは書いていないが、そう取れるように書いている。)また、吸血鬼ミルチャが、宗教学者ミルチャ・エリアーデからであるように、あからさまな場合も多数ある。

『ヴァンパイヤー戦争1吸血鬼ヴァーオゥの復活』では、白鳥座X-1から発信されたメッセージは解読されえるものとして描かれている。
この点は、レムの『天の声』と異なっている。レムの場合、解読し得ない、人間の認知能力を超えたものとして宇宙からのメーセージは描かれる。
レムの世界観は、不完全性原理や脱構築の理論と共通の主題系にあるといえる。
宇宙からのメッセージについて、「そこに意味が隠されているならば、どんな暗号でも解読できないことはない」と書いてしまう笠井潔は、脱構築以前の人であることは間違いがない。
笠井潔は、矢吹駆同様、フッサールであって、デリダではないのだ。
異星人であっても、意味は判るという信憑・確信は、異星人と地球人に共通の「前-言語」があるということだ。この根拠なきデタラメを言ってのける大胆さには、野蛮人のような魅力がある。

『ヴァンパイヤー戦争2 月のマジックミラー』について
『ヴァンパイヤー戦争1』の冒頭で、吸血鬼一族はNASAの宇宙通信基地に対して、自爆テロを行う。その行動は不可解で、読者には文明を破壊する悪と映ることだろう。しかし、物語の進行とともに、このSF大作の背景には、宇宙の善神(ラルーサ)と悪神(ガゴール)の対立があり、ミルチャらの吸血鬼一族は、ラルーサの側に立ち、物質文明の罠を突破するために、吸血神ヴァーオゥを復活させようとしていることがわかってくる。当初、主人公九鬼は、自由な立場であったが、ヴァーオゥの復活の鍵となるキキと出会い、吸血鬼一族の側に立つことになる。
ここで吸血鬼幻想は、作者の趣味から主義に変貌する。キリスト教の支配する西欧社会において、吸血鬼の側の立場を選ぶことは、反文明の立場を選ぶことである。キリスト教およびそこから派生した資本主義(「プロテスタンティズムと資本主義の精神」におけるマックス・ウェーバーの議論を想起せよ)では、蓄財こそが善であり、生産主義的立場から文明は積分化されるべきだとされる。それに対し、キリスト教以前の魔術思考に属する吸血鬼の思想においては、蓄財は悪であり、過剰は蕩尽されねばならない。
ただ、資本主義の最先端では、表層/深層、中心/周縁、過剰/蕩尽といった二項対立がなしくずしに解体されており、そこに吸血鬼主義をぶつけることは、すでに死んだ超コード的二項対立を復活させ、延命させるという反動的な結果にしか繋がらない。
『ヴァンパイヤー戦争2』は、礼部一族が支配する日本社会の闇を暴くことに主眼が置かれている。この物語では、礼部一族が最上のメタ・レベルに立つが、要するに笠井が展開したいのは、天皇制論なのである。
『ヴァンパイヤー戦争』は、笠井によるコムレ・サーガの一部を成す。コムレ一族とその長にあたる真の木は、歴史の表面に出てこないが、日本の真の主権者であるとされる。コムレ一族は、要するに縄文民族のことなのである。
コムレ一族は、日本における吸血鬼一族なのである。最初、コムレ一族は悪として読者に認識されるだろうが、主人公九鬼の認識の深まりとともに、読者はコムレ一族こそ善であると判断するようになる。
『ヴァンパイヤー戦争』は、日本においては縄文民族解放闘争として捉えなおすことができる。
日本列島の先住民族である縄文民族は、稲作を行う弥生系の民族に支配されるようになる。
稲作は、生産主義的な蓄財の根幹である。弥生系の民族の長は、礼部一族である。
この笠井史観のことを柄谷行人は「ウラ日本史観」と呼んだ。柄谷行人は、『ポスト・モダニズム批判~拠点から虚点へ』(作品社)で笠井と対談したり、『マルクス可能性の中心』(講談社文庫)解説を笠井にさせたりしつつも、『GSたのしい知識』特集千のアジア(冬樹社)での浅田彰との対談では、笠井史観を「ウラ日本史観」とし、皇国史観のような日本史観をひっくり返すが、今度はそのウラに釘付けになるとして批判するのである。つまり、礼部一族の権力を批判しても、今度はコムレ一族の権力に加担してしまうということである。
だから、この作品をB級エンターテイメントの作品として楽しむ一方で、作者の限界についても同時に思考すべきなのだ。笠井潔は、我々の到達点ではなく、思考の出発点として、踏み越えてゆくべきベーシックとして起立している。

複数の『嵐が丘』
複数の『嵐が丘』があった。
はじめにブロンテ姉妹の四女エミリ・ブロンテによる『嵐が丘』があった。キャサリンとヒースクリフとの恋愛と、ヒースクリフの復讐譚を扱ったこの作品は、その過剰なまでの激情の表現において、世界文学において不動の評価を得ている。
つぎに、『文学と悪』に収められたジョルジュ・バタイユによる「エミリ・ブロンテ」がある。バタイユは、『嵐が丘』において人間の<過剰>を蕩尽しようとする悪を発見する。
続いて、吉田喜重監督による『嵐が丘』の映画化があげられる。『エロス+虐殺』の映画監督によるこの作品は、『嵐が丘』を日本の中世に舞台を移し、鬼丸を中心とする物語に作り変えた。
最後に笠井潔によるこの映画のノベライズがある。すでに『薔薇の女』において、バタイユをモデルとするジョルジュ・ルノワールを作中に登場させた笠井は、この映画の中に自身のコムレサーガと共通する観点を見出し、ノベライズを行うのである。
なお、『嵐が丘』にはアンナ・レストレンジによる『嵐が丘にかえる』という続編がある。ただし、倉橋由美子による翻訳であるという以外には、さして重要な作品ではない。
ちなみに、私はケイト・ブッシュによる『嵐が丘』が好きだ。

記事を読んでいただき、誠にありがとうございます。読者様からの反応が、書く事の励みになります。