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“漫才”という演芸について

どうも、ただのお笑いファン「田々之(タダノ)」です。

今更ですが、“漫才か漫才じゃないか論争”について、私の意見をまとめておこうと思います。


“漫才か漫才じゃないか論争”とは

漫才か漫才じゃないか論争とは、M-1グランプリ2020のチャンピオンとなったマヂカルラブリーの漫才を発端として巻き起こった論争である。

https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E6%BC%AB%E6%89%8D%E3%81%8B%E6%BC%AB%E6%89%8D%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B%E8%AB%96%E4%BA%89

M-1グランプリ2020にて、マヂカルラブリーは、野田さんが転げ回る漫才を披露したことで、賛否両論が起き、その現象を“漫才か漫才じゃないか論争”と呼ぶようになりました。

マヂカルラブリーの村上さんはこの論争について、マイナビのインタビューで次のように話しています。

村上:逆に漫才が伝統芸能になりつつあるのかな、ピンチかなと思いました。カタチが決まったら伝統芸能になってしまい、歌舞伎は飛んじゃダメでしょってみんなが思う。漫才もたぶんそうで、寝転んじゃダメでしょってみんなが思っていたら、カタチが決まっているということ。2人がしゃべり合うと決まってしまったら、もう伝統芸能になっちゃうので進化は止まってしまう。

https://news.mynavi.jp/article/20210815-magilove/3

そもそも演芸としての“漫才”とは

今一度、漫才という演芸について調べてみました。

漫才という演芸について、以下の本で知ることができます。

【中古】 落語入門 おもしろ落語の“ら”の字から / 相羽 秋夫 / 弘文出版 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】

この本は落語の解説本ですが、他の演芸との違いについて説明している部分で、漫才について触れています。
本のp.5より一部を以下に抜粋いたします。

漫才のような分野を「今日芸」と呼んで、「伝統芸」の落語と区別しています。
漫才の解説本が書けないのは、こうした一定の原則がないからです。それだからこそ、いつの時代もお客の希望に合わせる芸が供給できるのです。
落語は、伝統的な要素が多いだけに、どうしてもそれにしばられて、時代の動きに遅れがちなところがあります。

相羽 秋夫 著「落語入門 おもしろ落語の“ら”の字から」p.5より抜粋

時代の移り変わりによって内容や見せ方を変えられるのが、演芸としての“漫才“と言えるのではないでしょうか。

私の考察

相羽 秋夫さんの著書を引用すると、「いつの時代もお客の希望に合わせる芸が供給できる」のが漫才だと言えます。

つまり、内容だけでなく、伝え方や見せ方も時代によって変えられる、ということを指していると思います。

漫才において、時代によって変えられる部分は主に次の2点だと言えそうです。

  1. 内容
    流行りの話題やトレンドに合わせて変える

  2. 表現
    機材に合わせて伝え方や見せ方を変える

”漫才=しゃべくり漫才“はなぜか?

今回の論争を含め、“漫才と言えばしゃべくり漫才でしょ”というイメージを持っている方が大変多いように思いました。

なぜそのようなイメージが付いているのでしょうか?

日本近現代文学専門の斉藤先生の記事を引用して考察します。

(佐藤先生)大きな転換期は1930年代でした。この頃に何が起きたかというと、ラジオの普及です。人々の生活に欠かせなくなったラジオが「大阪人っておもしろい」というイメージの普及に一役買いました。
中でもひときわ大きな存在だったのが、主に昭和期に活躍した漫才コンビ、横山エンタツ・花菱アチャコと、漫才作家の秋田實(あきたみのる)です。現在、一般に知られる「しゃべくり漫才」のスタイルを確立したのが彼らだと言われていて、いろいろなラジオ番組が制作される中、エンタツ・アチャコをはじめとする漫才が放送されて人気を博し、同時に「大阪弁=漫才=おもしろい」というイメージが全国的に広まっていきました。

https://newsmedia.otemon.ac.jp/2885/

終戦日が1945年8月15日ですから、1930年代はまだ高度成長期も迎えていません。

あくまで私の予想ですが、その当時の機材は今よりも性能が悪く、マイクの近くで喋らないと声が拾えないため、しゃべくり漫才にならざるを得なかったのではないでしょうか。

いくら面白いことを言ったとしても、その声がマイクで拾われないと、聴取者に届けることはできません。

音のみのメディアであるラジオにとって、しゃべくり漫才との相性がよく、“漫才=しゃべくり漫才”というイメージが付いたのではないかと思います。

“漫才か漫才じゃないか”という問いはおかしい

(佐藤先生)1960年代後半に全国的にテレビが普及するとともに、メディアの中心はラジオからテレビへと変わります。ラジオによってつくられた「大阪弁はおもしろい」「大阪はおもしろい」というイメージの広がりは、テレビの登場によって加速しました。
それまでラジオで聴くだけだった大阪弁やしゃべくり漫才に、身振り手振りの動作やステージ衣装の視覚的情報が加わり、ステレオタイプな大阪のイメージはより強固なものとなって人々に定着していくことに。

https://newsmedia.otemon.ac.jp/2885/

テレビによって伝え方や見せ方が変わります。
つまり、しゃべくり漫才に囚われなくて良いとも考えられます。

私の意見まとめ

論争の元となったマヂカルラブリーの漫才は、日進月歩の技術進化によって、伝え方や見え方が変化し、表現の幅が広がっただけだと言えるため、“漫才か漫才じゃないか”という問い自体が見当違いであると私は思います。

おまけ:昨今の表現における試行錯誤

昨今ではVRによる漫才の提供方法を色々と試しているようなので、一部紹介します。

M-1グランプリ2020では決勝戦をVR会場で配信するという試みをしています。

アメリカザリガニは、VR漫才ライブと題して、モーションキャプチャで3Dキャラクターを動かし漫才をしています。

四千頭身は、VR漫才と題して、漫才中の後藤さん目線で漫才が楽しめるという動画を公開しています。

表現が広がり、届く人も変化があり、色んな視点の楽しみ方が増えるのかなぁと思うと、ワクワクします。

以上

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