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高見順「闘病日記」②

 一人の作家が一生のうち書く量はどのくらいのものなのか。高見順のそれは圧倒的なのではないか。食道癌を患い、死に向かって衰えていく一方の中で、病室のベッドでこれだけの日記を書くとは。パソコンも無い時代、どれだけのエネルギーが要っただろう。高見順全てが言葉を書くこと、文章を書くことを欲していたのだと思う。

私の書き魔は自分との会話の故である。…つまり、自分で考えるということ。…「表現」とはおのずと違う。表現者であるよりも、生きたい…。(日記より)
いかに生くべくか、それと全く無関係な文学には反対である。…いかに生くべくか、いかに生きているか、それがすなわち文学になっている。(日記より)

 高見順は東大英文科を出たあと、マルクス主義運動に身を投じたが、治安維持法違反疑いで逮捕された後「転向」した。「転向」は高見順にとって重大なことで、日記でも度々そのことに触れている。

私が治安維持法でつかまってオジギをしたのも、その卑怯、臆病の原因は、やや誇張すると「死の恐怖」ではなかったか。自由の剥奪が何よりたまらなかったが、それはつまり身心の「死の恐怖」に根ざしたものではなかったか。(日記より)
戦中に「保身」…検挙をのがれるために私は「戦争協力」に「いやいやながら」参加した。(日記より)


 高見順は宗教に対する関心も高かった。病室での読書量はすごいもので、仏教の本、キリスト教も本をたくさん読んでいる。内村鑑三、矢内原忠雄の本などもかなり読み込んでいる。東京神学大学で教鞭をとった井上良雄氏は高校時代の友人で、病室にも訪れ対話している。
 「聖書」そのものに触れたことがあるのか、この日記には出てこない。少なくとも晩年聖書を手にすることはなかったのだろう。高見順はキリストの十字架については心動かされるが、復活というところがわからない、というようなことを書いている。人に傷つけられ、そして人を傷つけて生きてきたことの重荷を常にに感じていた高見順だが、死へ向かう癌の苦しみの中で、それらを十字架に架けたいという思いはあっても、そのあとの最も重要な「復活」にまでは委ねきれなかったのだ。

すべて信仰には、理性をこえて「飛びこえる」瞬間が必要だ。(日記より)


 高見順は多くの人から愛されていたと思う。作家仲間、編集者、学生時代の友達、近辺の知人。多くの人が高見順を見舞っている。単なる義理ではないように感じた。病室にいながら、毎食のように差し入れられたもの、手作りのものを口にしている。秋子さんは本当に献身的に付き添い、高見順もそれを心から感謝している。それでも高見順はこう書いている。

夜明け、廊下から水枕の氷入れかえの音聞こえる。さびしい。(日記より)


 日記は死の約1ヶ月前まで書かれている。
 井上良雄氏が新聞記者の問いに答えた記事の記載。「高見君や平野君は一家を成しているから良いですが、私はこれが自分の専門だということを持たない人間になってしまいました。よく専門は何かと聞かれると、『井上良雄』だと答えるのです。冗談ですがね。」

冗談ではすまされぬ。…「一家を成す」ことに何の意味があろう。…私もまた「高見順」だと答えたいのである。「一家を成している」のは私の一部分にすぎない。私のことをもし考えてくれる人があったら、全体として私を見てほしいのだ。…全体としての「高見順」を。(日記より)
矛盾をうちにはらんだ生命、たましい。矛盾を公式的に機械的に除去したら、生命が失われる。(日記より)
誠実に語る。誠実に自己を語る。自己の魂の発展。魂を絶えず発展させ生長させること。人生にとって、作家にとって、これは大切なことだった。…だが、今となってみると一体なんであったか。一時は…自己を自己とはちがう人間にすることが生長であり発展であるとまで考えた。…私は、特別の生まれ、境遇のせいもあって、特に自分とはちがう自分になりたいと願った。作家としては自分の心の弱さを「誠実に披露することが」自分を自分とちがった自分にしうると考えた。……私は、その「誠実」ということに忠実であった。では、私は、私とちがった私になりえたか。私の考えた理想像に私を近づけることができたか。
今の私は、…こういうほかない。私はしょせん、私というものになりえたにすぎない。私というものは、けっきょく、私になりえたということにすぎない。(日記より)


 出生、父親、文学、転向、夫婦、親子、ノイローゼ、対立、誠実、宗教、救い、癌、…死。
 高見順の「悲しみ」は何だったのか。どこから来た「悲しみ」だったのだろう。

 もし私が、このときの高見順さんに話しかけるとすれば、何と言ったらいいのだろうか。




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