安冨歩氏の語る「非暴力抵抗の本質」の愚かさについて - part 1 辺野古編

安冨歩氏が、沖縄の辺野古に絡んで「非暴力闘争で最も大切なのは、どうしたらこちらが暴力をふるわずに、相手に暴力をふるわせるように挑発するかということ」なんていうとんでもない主張をしている事を、昨日、ご自身のツイートを発端にして初めて知った。


安冨氏には、ビ・ハイア社のパワハラ事件提訴のおり、一方的に被告の社長(自らのスポンサー)を擁護し、訴え自体を冗談のように茶化すという暴挙に出た関係でここのところ批判を投げてきた。それについては、また別に、いずれまとめて文にしようと思っている。

その件に関してもまあ呆れ果てていたのだが、この非暴力闘争に関する彼の発言をについて知って、ここまでの人だったか、と、逆に納得しつつある。


わたしが辺野古の座り込みテントを訪れたのは、リーマン・ショックよりちょっと前のころだったと思う。

「まあだから、そこも内地の人間のほうが多かったりするわけ」と、沖縄に長年通い続けている旅人から説明を受けたりして、これは自分の目で見ておかねばなと行ってみた。

その頃の座り込みテントは、すげえ平和だった。

テントにはまあ確かに、人数で言うと内地出身者のほうが多かったんだが、それは単に「昼間っからテントで座ってられる」という特殊な立場にいる人が、地元地域では多くの場合内地出身者だったというだけではないかと思う。地元コミュニティ内部の関係者たちは、どっちかというと「仕事中に顔を出す」「出入りする」といった感じだった。

彼らとテントに座り込む人々とのやりとりは暖かく、でも小ぢんまりとして地味な感じが、「地元コミュニティみんなが賛同しているわけではないんだな」という気配を感じさせた。

対立や亀裂の気配とは少し違う。対立や亀裂によって、これ以上彼ら自身が傷ついたり傷つけあったりすることを避けるための、深い配慮がもたらすひそやかさの気配だ。


安冨氏は辺野古に行くぐらいはしたんだろうか?

内地から報道を通して見れば、「沖縄の地元民対日本国政府」という構図しか見えないかもしれない。それしか見えない人が、「辺野古への基地移転に賛成する地元民」を政府の犬だか欲張りの自業自得だかという事にしてしまうのは簡単だろうが、実際に現場で抵抗する地元民にとってそれらの人々はこれからも共に暮らしていかねばならない隣人だったり、友人だったり家族だったりする。現地には現地の、基地とともに暮らしてきた70年越えの歴史があり、その歴史が持つ様々な意味があり、残す様々な禍根がある。

何が「勝利」にあたるのかを決めるにあたって、それを少しでも考慮したんだろうか。

この人は警官隊やら警備員を挑発し、結果として暴力をその身に受け、憎しみの火に油を注ぎ、地元コミュニティが破壊されても、ジュゴンの海さえ守られれば勝利だと呼ぶつもりなのか。


というように、精神性からして、いつぞやの大日本帝国を彷彿とさせるエゴの腐臭が溢れる問題児なのだが、そもそも戦略としてもひどいものである。

「土人発言という暴力を振るったことで、警察は窮地に立たされている」というのが事実にしろ、『微罪による逮捕乱発、接見禁止付長期拘留』というもっともっともっとえげつない暴力を振るったことに関しては、全然窮地に立たされていない。

この暴力が「受ける側」にとってどういうものかは、この辺りがわかりやすいだろう。


安冨さんは、こちらが挑発すれば、相手はバカみたいにカメラの前で、人々の心を掴みやすいキャッチーな形の、しかし実害のない暴力ばかりをふるってくれるとでも思っているんだろうか。

暴言という形の暴力をカメラの前で引き出せたとして、それで現場で頭に血がのぼった抵抗側の人間が手を出してしまったらどうするのか。


本っっっ当に何も考えられてない、浅はかな思いつきだとしか思えない。全体的に。


安冨さんが、東大の学生率いて出てきて、最前線にズラッと並んで「僕達が殴られて、殴り返さずに耐えます、だからさあ挑発してください」って言うならまだわかるんだけども。

(それでも、確執をエスカレートさせるやり方には賛否両論あると思う。)

自分はむっちゃくゃ安全なところから、自分じゃない人間に暴力をふるわせるよう呼びかけてるわけで。
それを「卑怯だ」と批判してきた相手を、「弱虫」だと言い放つ有様からは、もうファシスト臭すら感じるっていう。


んでですね、こちらの「非暴力抵抗の本質」なんですけど。

これがまた、こう、

あなた、一体何を言ってるんですか???

っていう話で。

それは part 2 にてお送りしたいと思います。








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