オリンピックを目指す人

小学校2年生の時仲の良かった女の子に、「水泳でオリンピックを目指せる」と言われていた子がいた。

今冷静に考えると、小学2年生の持ちタイムって何だよ、とも思う。けれどとにかく彼女は優れたタイムを持っていたらしい。当然彼女自身もオリンピック選手になることを夢見て、毎日のように学校の後にスイミングスクールに通って何キロも泳いでいた。

小学校高学年になって、クラスも離れて疎遠になった彼女が、水泳の時間にお手本をやらされたりしているのを見た。水が怖いのか楽しいのかすら今イチ自分でよくわからないまま、なんとなく言われたように手足を動かしてはウゲッだのツーンだのなってワタワタしている我々の大半とは、飛び込み台に立った瞬間からまるで別の次元の生き物みたいだった。洗練され研ぎ澄まされた意志がそのまま形になったような、機能的かつ鮮やかな動きやリズムは死ぬほどカッコよくて、ただただ呆然としてしまった。同級生たちはみんなそうだったと思う。

でも、中学の2、3年になる頃には、彼女と水泳の話は全く聞かなくなっていた。

オリンピック開催の是非をめぐる議論がSNSで活発になり、池江さんへの批判が強まる中で、彼女のことを思い出した。

今この年になると、単に「彼女自身がオリンピック選手になることを夢見ていた」のではなく、「オリンピック選手を目指すように周囲から物凄い圧力を受けていた」ことがよくわかる。彼女の母親はどちらかというと、「がんばってくれたらお母さん嬉しいな」的なアプローチをした人だとは思うけれど、がんばってくれなかったときには遠慮ない落胆を見せただろうし、でも自分を喜ばせるためにオリンピック選手枠をかけて戦うということがどういう事なのかなんてろくろく考えてもいなかっただろう。

たとえばたかが14、5で、それまで自分が人生を賭けてきた(としか言い様がないほど、全てが「それ」の毎日を送っていた)ものにおいて己の限界と向き合わせる事になる、なんて事は、親もコーチも周りで何の関係もないのにドヤ顔をしていた教師たちも、たぶん全く考えていなかったし、実際にそれが起こったとき、誰1人として彼女を支えずに、ただ自分ひとりで乗り越えることを求められ、おそらくは「そろそろ高校受験に身を入れないと。代表選手にはなれなかったんだし」みたいなことをふつうに言われたんだと思う。高校時代の彼女は、ふつうの高校生の女友達とふつうの高校生みたいな事をしていたけれど、張り詰めた孤独感みたいなものを背負っていてなんだか近づき難かった。


オリンピックはけっこう長い間、冷戦の主戦場のひとつであり、ザ・国威掲揚イベントだった。戦争をして確保するような国益を確保するために国々はオリンピックで勝とうとした。だから国々は、一人一人の選手養成のために何人何十人かを廃人にすることも全く厭わなかった。そのメンタリティが、まだ随所に残っているのだろう。


そういう意味で言えば、池江さんにも当然似たような点はあると思う。いやそれどころか、難病を患い克服し復帰するという流れの中で、五輪出場の夢は彼女にとってさらに複雑な存在になっているはずだ。彼女が代表選手だったから差し伸べられた支援の手などもあったかもしれない。なかったとしても、おそらく五輪は自分が病を克服できると信じる理由にはなっただろう。

わたしはどちらかというと池江さんに、「支えてくれた人たちに恩を返すために勝たなければならない」というようなプレッシャーを感じてほしくない。それはそれでありがたかったとしても、だからといって五輪に出なければならないとか勝たなければならないという風に感じてほしくはない。

それと同様に、今世の中の人たちが五輪を開いて欲しくないと思っているから、自分はものすごく出たいと感じてるのに、開催に反対しなければならないと感じて欲しくもない。

そんないい子にならなくてももっと気を楽にできりゃいいのにね、と思う。


間違えてほしくはないんだけれど、わたしはオリンピック開催には反対である。
誘致から否定的だった。(反対運動には一切参加していないので「反対だった」とは言わないけど)
特にコロナウイルスの遺伝子組み換えに関する特性を聞いてからは、以前の十倍ぐらい反対である。
池江さんにはとても気の毒だと思うが、彼女の思いのためにこのクソイベントを許容しようなんていう気持ちは微塵もない。


ただ、池江さんに自分の気持ちを偽ってまで開催に反対することを求める筋合いが自分たちにあると思えないのだ。特に、これまで大きいスポーツイベントが好きで、この実現のために誰がどういう風に犠牲になってるかなんて全く考えたこともなく消費してきた大半の大人たちには。

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