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余白のある文章を

ゆっくりとページを捲る。
文章を追うのではなく拾いながら読む。

読書の醍醐味って人それぞれだけど、私は大事な何かを見失ってたなと気づく。いつの間にか「一冊でも多く、そして早く」本を読む行為そのものに重きをおくようになってしまっていたと。

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久しぶりに川上弘美さんの短編集を手にし、言葉を拾いながら読み進めてみる。ああ、やっぱり好きだなと感じた。面白いとか感動したとか、何がどうしたという具体的な「好き」は表現できない。

だけれど「しみじみと」した世界がそこに広がっている。この「しみじみ」ではなく「と」の部分が大事で、違いは私にしかわからないだろう。

日本語は美しくも難しく、それでいて余白が多い言語だと思う。音にすると同じ言葉でも文字に置き換えると意味が変わってくる。

例えば「あめ」「雨・飴」。「はし」「橋・端・箸」など。

助詞というものがことさら日本語に奥行を与えている。

助詞は、言葉に意味を肉付けする語。「〜を」や「〜が」など、名詞に接続して言葉の意味を補足語や主語にしたり、「〜と」のように語と語をつなげたりする言葉を、まとめて助詞という。

これがなかなか厄介で、助詞の使い方ひとつで受け取る印象が違ってくるけれど、定義はどこまでも曖昧。

「海に行く」の「に」
「海へ行く」の「へ」
「日本でただ一つの」の「で」
「日本にただ一つの」の「に」
「目の悪い人」の「の」
「目が悪い人」の「が」

深く考えずに使っていることが多く、じっくり吟味する機会は日常生活においてはあまりない。

話は戻るが、川上弘美さんはこの「助詞」を丁寧に扱っている作家さんだと思う。文章は読みやすく「スラスラと」読めてしまう。誤解をおそれずいうならば「何となく自分にも書けそうな」雰囲気を醸し出してもいる。

ところが実際にチャレンジしてみて悟るのだ。
「書けない」現実を。

平易な文章、読みやすい文章を書くには実は、卓越したセンスとそれ以上に「言葉」に対するこだわりが必要なのである。語彙力もそうだし表現力も大事だけれど、「言葉」の組み立て方で大きな差が出るように感じるのだ。

「あ」という文字が「あめ」という単語になり「雨が降っている」という文章が出来上がる。文字を並べ単語を組み、言葉をどう編み込んでいくかによって味わいが変わってくる。

川上弘美さんはときに「必要ではない」言葉を混ぜ、「必要と思われる」言葉を削ぐ印象も大きい。だらだらと思いつくままに言葉を連ね「饒舌なふりをした投稿」になってしまう私の文章とは真逆である。

どんなに途中だらけていても、最後はきっちり意味のある内容で締めようとする浅はかな文章に、ときどき自分でも辟易してしまうのだけれど。癖というのは簡単には治らない。

だからかな、と思う。私には書けそうにない「余白がある文章」に目を奪われ、「余白のある文章」が書ける人を好きになるのは。

空気の入れ替えのために開けた窓から、ヒンヤリとした風が吹き込む午後に「しみじみと」した本を読む幸せ。



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