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墓地の案内人 ロシアワールドカップ旅日記13

6月30日(土)ヴォルゴグラード→モスクワ

ヴォルゴグラードの空港を飛び立った飛行機が、モスクワのシェレメチェヴォ空港に降り立ったのは朝8時頃だった。

モスクワに来るのは6日ぶりだが、シェレメチェヴォ空港に来たのは初めてだ。旅のはじめにモスクワに降り立ったときも、次の日にエカテリンブルクへ飛び立ったときも、ドモジェドヴォ空港だったからだ。初めて降り立ったシェレメチェヴォ空港は、やはり巨大で近代的な空港だった。

この日も、ワールドカップの試合を観る予定はない。そこで今日は、モスクワにある世界遺産をすべて回る日とすることにした。「クレムリンと赤の広場」は初日に訪れた。あとは、「ノヴォデヴィチ女子修道院」と「コローメンスコエの昇天教会」だ。

まずは、「アエロエクスプレス」でベラルーシ駅に出て、そこから地下鉄に乗り換える。その途中で立ち寄った、キエフスカヤ駅が素晴らしかった。まるで美術館のようだったからだ。

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真っ白な天井に、美しいフレスコ画が並んでいる。それらはなぜか、農場で働く女性の姿を描いたものが多い。綿花を収穫する女性、とうもろこしを運ぶ女性、牛たちを飼育する女性、そして花の下で舞い踊る女性……。

それらのフレスコ画は、色彩が鮮やかなだけでなく、女性たちの表情の豊かさが見事だ。生き生きとしていて、柔らかい。ロシアに来てからというもの、街で出会う女性たちの美しさに驚きっぱなしだった。どうやらロシアでは、絵の中の女性たちまで、見惚れてしまうほど美しいらしい。

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最初に訪れたのは、「ノヴォデヴィチ女子修道院」だった。クレムリンの出城としての役割も担っていた、500年近い歴史を誇る修道院だという。しかし、建物の多くが修復工事中で、外観の美しさを見られない。小さな博物館の中にあったイコンは目を見張るほど美しかったけれど、見どころはそのくらいだった。

それよりも、僕の心に残ったのは、修道院の隣にある「墓地」だった。

静けさが漂う林の中に、いくつもの墓が並んでいる。有名なバレリーナや女優、エリツィン元大統領の墓まである。どの墓も個性的な佇まいで、彫像が彫られていたり、大きな写真が飾られていたりする。

でも、僕にとって印象的だったのは、そうした大きな墓ではなく、おそらくは無名の人たちの、壁に並んだたくさんの墓碑だった。どの墓碑にも、亡くなった人の名前と生きた年が彫られ、そして肖像が描かれている。墓碑の前には色とりどりの花々が捧げられ、穏やかな風に揺れていた。

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有名になることもなく、静かに生き、静かに死んでいった人たちがいる……。けれどそこからは、有名人たちの墓と変わらない、確かな人生の「重み」が感じられた。

ひとつひとつの墓碑を眺めていると、中年の男性に声を掛けられた。しかしロシア語なので、何を言っているかわからない。男性が、ついてきなとジェスチャーで示すので、後を追うことにした。

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男性が連れてきてくれたのは、白い柱のような形をした墓だった。僕がその墓を見つめていると、男性が小さく呟いた。

「チェーホフ」

作家のチェーホフの墓だという。こんなところにチェーホフの墓があったのか……。僕が驚いていると、男性は再び、ついてきなと歩き始めた。

今度は、黒い棺のような形をした墓だ。すると、男性が呟いた。

「ゴーゴリ」

作家のゴーゴリの墓なのだ。チェーホフの墓とゴーゴリの墓がこんなにも近接していることが新鮮な驚きだった。

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次はどこへ連れて行ってくれるのだろう? しかし男性は、さよならとジェスチャーで示し、そのままどこかへ歩き去っていった。

僕は取り残されたような気持ちで、ゴーゴリの墓の前に佇んだ。どうしてあの男性は、僕をこんなふうに案内してくれたのだろう? いや、そもそもあの男性は、いったい誰なのだろう……?

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次に訪れたのは、「コローメンスコエの昇天教会」だった。屋台で買ったとうもろこしを食べながら歩いて行くと、ヴォズネセーニエと名付けられた古い教会が見えてくる。鉛筆の先っぽのような形をした木造屋根が美しい。けれど、いままでモスクワのカラフルな建物を見てきた目には、ちょっと地味な印象は拭えなかった。

面白かったのは、教会の隣にある鐘楼だった。ちょうど15時だったせいか、鐘楼の鐘を、係のおじいさんが懸命に鳴らしていたのだ。いや、鳴らしていたというより、鳴らし続けていた。それも、耳をつんざくほどの音を出す鐘を、10分近くも。

近くにいた女の子は、あまりのうるささに耳をふさいでしまったほどだった。いったいなぜ、こんなにも長い時間、爆音の鐘を鳴らし続けるのだろう? けれど、まるで何かに取り憑かれたように、ひたすら鐘を鳴らし続けるおじいさんの姿は、狂気に満ちていて悪くなかった。

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教会の帰り道、突然、空から夕立が降ってきた。それも土砂降りの雨だ。周りにいたモスクワの人々は、傘を持っていないのか、近くのショッピングセンター目指して駆け出した。僕は傘を持っていたが、かばんから出すのが面倒で、彼らと一緒に走り始めた。

彼らも、僕も、雨に濡れながら、思わず笑みがこぼれてしまう。みんな、突然の雨が楽しいのだ。僕は彼らと走りながら、このロシアという国に自分が自然に溶け込んでいることを感じていた。

旅に出る前は、体調が悪い日が続いていた。何度か病院へ行ったほどで、こんな体調でロシアを旅できるのかな、と心配していたくらいだった。でも不思議なことに、ロシアに来てから、自分が元気になっていく実感がある。連日の移動で疲れは溜まっているはずなのに、日に日に新たな力が湧いてくるのだ。

旅が与えてくれるプラスの力はすごいな、と思った。いや、それはもしかしたら、ロシアという国がもつ不思議な力だったのかもしれない。

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夕立が止むと、今度は、地下鉄の駅めぐりをした。

モザイク画とシャンデリアが華やかなコムソモーリスカヤ駅も見事だったが、ノヴォスロボーツカヤ駅も素晴らしかった。ホームに並ぶ色鮮やかなステンドグラスには、クレムリンの赤い星や植物模様、そして様々な職業の人々が描かれている……。モスクワの地下には、地上に劣ることのない、カラフルな世界が広がっているのだった。

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この日、最後に訪れたのは、「アヴィアパルク」という名のショッピングモールだった。ここには、フロアを貫く超巨大水槽があるのだ。その大きさにも驚いたが、水槽の中を本物の魚が泳いでいるのにもびっくりした。それでも、モスクワの人々にとっては見慣れた光景なのか、物珍しげに眺めている人は少ない。

夕食は、ショッピングモールの中のファストフード店で、ハンバーガーを食べることにした。ロシアはなぜか、ハンバーガーがとても美味しい国なのだ。

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郊外にあるショッピングモールのためか、日本人の姿もなければ、他の国の観光客の姿もない。周りで食事をしているのは、地元の人たちばかりのようだ。でも好奇の眼差しを向けてくる人はいなくて、とても居心地が良い。

思えば、ヨーロッパへ来たのは今回で3度目だ。最初はスペインとポルトガルを旅し、2度目はイタリアとマルタを旅した。けれど、こんなにも自分が「合っている」と感じた国は、ロシアが初めてな気がする。

なぜかはわからない。でも、ロシアとは不思議と、波長が合うのだ。

旅の素晴らしさを、これからも伝えていきたいと思っています。記事のシェアや、フォローもお待ちしております。スキを頂けるだけでも嬉しいです!