見出し画像

ぼくの旅路 #9


【エゴを見つめる・ネイティブアメリカンの教え】

当時のわたし:26歳

 翌朝、ゆっくりとしたブレックファーストの後に、ぼくたちはサンダンス会場へと向かった。朝食というのは、実に特別な時間だ。誰かの家での夕食となると、個として招かれている気になるが、同じ屋根の下に目覚めて囲む朝食は、同じリズムを刻みながら輪になっていく感覚がする。そして、さあ、いまから一日が始まるぞ、と同じタイミングで一歩を踏みだす連動感。

 実は、こちらに来る数日前に、ぼくはグラスホッパーに呼び出されて、ある話をされていた。わざわざ改まって、「後で、二人で話をしたい」と言われたものだから、どうしたものかと、とてもドキドキとして数時間を過ごした。その日も、いつものように大勢の仲間たちで、キャンプをしていた。その人びとの垣根を突き抜けて、送られて来た、まっすぐな視線。グラスホッパーだ。その目は、「今が話すタイミングだ」と語っている。

 ぼくたち二人は、仲間の輪から離れ、小高い丘の上へのぼった。そこには、丸太を割いて作ったテーブルとベンチがあり、そこに向かい合わせに座った。テーブルの横には、木立が立ち並んでいる。丘の上のここからは見晴らしもよく、同時に、木々に囲われた安心感もある。ピクニックに丁度よさそうな場所だ。ぼくは、その一軍の木立の存在にこころ安らいだ。

 どうにも、こちらの、遮るものが何もなく、何処までも見渡す限りの大地というものに、馴れないのである。日本で生まれ育ったぼくには、山々には木々が生えていてほしいし、森に入っていけば隠れられる安心感が欲しい。折り重なった森のレイヤーに一歩一歩足を踏み入れ日常からエスケープしていく感覚、それがぼくにとっての『自然』の存在意義なのだろう。耳を済ませば、せせらぎが聞こえ、足下に苔がむし、木々が枝を張らす階層には鳥達の鳴き声が響いている。ミクロの世界がどこまでも広がり、同時に折り重なっている。ぼくの細胞密度は、そのような森のディテールからトレースされているようだ。

 こんな話をある時、こちらで仲良くなったネイティブの男性にしたことがある。そしたら彼は逆に、「遮るものが沢山あるような森は、馴れたものじゃない。遠くまで見えないと、心配な気持ちになってしまうよ。すぐそこの樹の後ろに、熊が隠れていたら、どうするんだい!」と言っていた。ぼくは、その話を聞いて、深く納得した。そのひと言は、実にリアルに、彼らの暮らしと獣たちの関係性を現していた。そのことを、言葉のレベルだけでも感じられたことにより、今まではただの何もなかっただけの広大な大地に、あるひとつの点がマッピングされた。そして、その大地をナビゲートするための指針が、ぼくのこころの中で生まれたのだった。

 こちらに来てからの、この広大な自然は、ぼくの細胞にとって馴れ親しみのない情報であり、潜在意識下ではその新しい情報を細胞に書き写していく作業の毎日であった。その作業のなかで、人との出会いはその速度を早めてくれる。人びとの言葉やその存在は、彼らがその土地で培ってきた、時にそれは祖先から引き継いで来た悠久のときの中で、洗練されてきた密度の高い情報であり、その波動に触れることによって、こちらの学びの速度も加速される。そのバイブレーションに触れること、つまりは、生身で経験することの価値はここにある。そんな瞬間の日々が旅であり、「旅で学ぶ」とは、こういうことなのだろう。

 そして、ぼくの学びの速度を、圧倒されるほどに速めていってくれる人物がいた。それがグラスホッパーだ。その丘の上で、ぼくたちは一時の話をした。一生忘れぬことのできぬ、話だ・・・。


バージョン 2 (3)


感謝!