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自然に学んで育った、海の猟師(猟師)

「えぇっ!!それ本気ですか?」
この記念すべき“東松島食べる通信”の創刊号の特集で、真イワシを取り上げたいと打診した時に言われた言葉。大きな笑い声とは裏腹に、毎年イワシ漁をしていても、イワシが獲れる年と獲れない年の差は100か0、それだけイワシの群れが来ない事もある。下手したら10年待つ事も。それだけに数多くの漁船が集まるこの石巻湾でも一番の花形とされ、一晩で1億稼ぐ事もあるのが、このイワシ漁。聞けば聞く程、編集部としても魅力的だがリスクの高い食材。なんせ、獲れなければ皆さんにイワシを送れない。「でも、イワシ漁やるでしょ?」と聞けば、豪快に笑い飛ばしたもののそこはカラリとした漁師気質。「よしっ、やりましょう!!なんだかすげぇ、燃えて来た!!」
ここから、定置網漁師大友康広(31)さんの物語が始まります。

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「浜市自体が、大きな教科書だった」

東松島市浜市地区。日本初の近代港湾の建設である「野蒜築港」があり、明治政府による東北開発の中心的な事業と位置づけられていたが、完成から3年後に台風で突堤が崩壊し、施設はそのまま放棄されており、現在では土木学会選奨土木遺産となっている。

浜市で定置網漁を行う祐神丸は、康広さんで3代目。自ら狩猟民族の血が流れているのだと言う彼のルーツは「実家の前の溜め池」だったと話す。実家で使っていた田んぼの溜め池は、幼少期の大友さんにとって1つの世界だった。船が浮かぶ程の大きなその溜め池には、自分だけの楽しみとして、フナや鯉、獲って来たザリガニなどを放しては釣っていた。たまに珍しい魚が釣れたりすると、一目散に溜め池に戻り、生きたまま放す事で満足していたそうだ。すでに小学校1年生の頃には、ウナギや金魚も放して、養殖じみた事までしていたから驚きだ。厚い氷が張る寒い冬には、氷に穴を開けてワカサギ釣りの真似事をしたり、夏には同じ部落の子供達と泳ぎもしたり、とにかく1年中その溜め池で遊んでいた。

とにかく外で遊ぶ事が好きな大友少年は、釣りの名手だけでなく、ゴムパチンコの名手でもあった。彼にとって遊びとは、聞けば子供同士の“マト撃ち”ではなく、まさしく“狩り”そのもの。小学校低学年の頃から“朝はあの家の軒下に、よくハトがいる”とか、“この木のあの枝には、夕方キジが休みに来る”など、浜市という部落内の動物事情に精通していた。そうして動物の習性を自分で学び、道具を工夫し、決して獲れるまであきらめず、獲物(動物)達と繰り返す1対1の真剣勝負は、彼が自然と動物を教科書とした勉強であり、最高の遊びであった。とは言え、獲物の習性や行動、ゴムパチンコの腕前が上がったとしても、そう簡単に子供が獲物を仕留められる程自然は甘くない。だからこそ勝負に勝って獲物を仕留めた時は最高に嬉しく、だからこそ獲れた獲物は自然からのご褒美として美味しく食べた。こういった話は、当然同級生とは合わず、いつも祖父とよく話をしたという。実は、祖父の清喜さんと父の久義さんは、それぞれ鉄砲撃ち。趣味とはいえ、狩りで仕留めた鳥や鹿などの獲物は必ず持ち帰り、家族で残さず食べていた。逆を言えば“食べない分は狩りをしない“。大友家はそんな家庭だった。

「あのスズメ、うめぇそうだなぁ」

保育所時代のエピソードも面白い。
遠足帰りを迎えた大友さんのお母さんに、引率の保母さんが青ざめながら「康広君が電線にとまったスズメを見て『あのスズメ、うめそうだなぁ』と言ったのですが・・・」と伝えたそうだ。そこはさすがの大友家。母はみじんも驚く事なく「ウチでその会話は、普通なんです」と答えた。

「ウチの前を通る魚は、素通りさせない!」

そんな、英才教育の中で育った大友さんが漁師になる事は、日常生活そのままの事であった。
漁師を続けていて、どれだけたくさん獲れても、毎日獲っていても、魚を獲る事に飽きる事はないそうだ。ちなみに、父親の久義さんも中学を出てからずっと定置網漁師として現役で活躍をしているが「毎日毎日獲れる魚の種類も、数も違うから楽しいんだよなぁ。定置網って、網の仕掛けも魚の事を考えて全部自分で作るから、獲れると本当に楽しいんだ。」と、嬉しそうに、そして誇らしげに言う。そんな大友さん親子は「オレたち漁師ってのは、心から大漁を待ちわびているんですよ」と言う。
定置網というのは魚の動きを予測して、広大な海に“ちょこんと”網を仕掛け、毎日網に魚が入っているかを見に行く漁。つまり、たくさん入る時もあれば、まったく獲れない事もある。とは言え、鮭漁など一定期間間違いなく大漁が見込める時期もある。こうした時期は、1年に本当に数日で、まさに先に書いた「大漁を待ちわびている」その期間。そんな大漁が見込める時期に、台風や時化などで船が出せない時は、親子して悔しくて眠れないのだそうだ。これが数日続くとノイローゼ気味に。これは、“船が出ていれば今日の水揚げ分の儲けを失した“という経済的思考ではなく、狩猟民族として魚がいるのを分かっていながら、自分達の船が出せずにみすみす目の前の魚を素通りさせることに、本当に腹が立つという狩猟民族的思考なのだ。

ちなみに海が時化ると、海の魚達はイヤでも動かなければならない状況に置かれる。全く魚が獲れていない時でも、一回の時化で定置網に魚がたくさん入ることも多い。大友さんは、そんな時化の時は、最高に燃えるそうだ。大きな時化の時は、定置網の仕掛けも波に煽られ、網が破けたり、壊れたりもするそう。しかし魚が獲れると判断した時には、たとえ数百万する定置網が壊されてでも勝負に打って漁に出る。
とはいえ、海では絶対にムリをしない。

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「海での集中が、楽しい」

彼は、とにかくいつも海にいる。なにせ趣味は釣りとサーフィン。どれだけ海が好きなのだろう?釣りは子供の頃、ゴムパチンコを武器に向き合った動物との1対1のやり取りと同じく、魚との「集中」した真剣勝負。サーフィンでは、波に乗っている時の並々ならぬ「集中」した時間。どちらも、その時間が楽しいらしい。

言葉には出来ないのだけれど、大友さんは海との向き合い方や接し方、海ではどう立ち回るか?という自分と海との関係性を、体と心で理解していると本人は話す。そのため、結果的に釣りに行っても、これがまたよく釣れる。人以上に釣れるとか、人より大きく等はあまり無いのだが、釣れないって事がほとんどない。理由は、腕ではなく海との接し方と言う。「きっと、海に対してフラットな状態でいられるから、落ち着くのかも。“海にいる”という状況を受け入れる事で、海への理解が高くなり、精神状況も穏やかになる。海は、大好き。」

「何もなくなったから、なんでも出来るぞ!」

2011年3月11日もいつも通りの仕事が終わり、結婚6年目にしてようやく授かった妊娠8ヵ月目の妻と自宅でのんびりしていた時、突然地響きと共に大きな揺れに襲われた。慌てて2人で実家に戻り、漁港に停泊させていた自分の船をしっかりと係留した時、鮎川浜へ津波到達の情報が入った。妻を避難場所となった小学校におき、親戚のおばちゃんを探しに外に出た瞬間、これまで聞いた事も無いドンドン!バキバキ!という音を聞いた。その瞬間、津波の到来に気付き、急いで妻を避難させた小学校に駆け戻り、なんとか難を逃れた。その日の深夜には、牡鹿半島へ鹿撃ちに行っていた父親とも連絡が取れ、所在が不明だった母親の無事も確認出来た。ただ、仙台新港で働いていた妹2人は、3日後まで連絡がつかなかったが、幸い家族は全員無事だった。

夜が明けた2日目の大友さんの心境は、「ここから、やってやっちゃ!何も無くなったから、なんでも出来るぞ!!」昔からの浜市の仲間達と、こう思ったそうだ。決心すれば、漁師ならではの一直線。震災の翌日には、流された2艘の船をガレキの中から見つけ出し、3日目には電気が戻った松島まで移動して、インターネットで近郊の造船場を探して出し、直接交渉で山形県の業者に船の修理を依頼した。

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街を離れる決心と、家族への想い

インターネットで造船所を探していた時にもう1つ調べた事がある。この地震と津波で、日本がどうなったのかだ。4日目には、ネットで震災の事を調べるうちに福島原発の事故を知る。もしかしたら、福島の原発が爆発するんじゃないか?同時に過去のチェルノブイリ原発の事故も調べ、600キロ圏は影響があり、東松島市は福島から100キロ。自分一人なら、妻との二人なら東松島市で復興・復旧の力になりたかった。でも、妻のお腹の中には子供がいた。事情が分かって、ダメだったと分かってから避難してももう遅い。今は船の修理などではなく、とにかく事情がはっきりと分かるまでこの町を離れよう、産まれて来る子供のために。行き先は沖縄県。放射能の影響を受けない、日本で一番遠い場所へ行くと決めた。一緒に船を修理して、再び立ち上がろうとしていた父親にも「子供のために、ちょっと離れる」と伝えると、父の久義さんは「お前が言うなら、止める理由はない」とだけ答えた。

震災から1週間後には、山形から飛行機を乗り継いで沖縄に到着。出発前の山形空港から沖縄県庁に電話連絡を入れ、事情を話して自ら支援を申し出た。沖縄県への避難者第1号として、メディアに登場し、メディアの力を利用して、様々な支援を取り付けた。とにかく、ここでも自分の出来る事を考え、家族を守るために、仕事を探した。仕事は水族館の飼育員や、マグロ船で一本釣りの漁師もした。

そんな沖縄でひと月が経ち、生活が落ち着いた頃から中部大学の武田先生とコンタクトを取り始めた。理由は、メディアだけでは福島原発の情報が分からなかったからだ。沖縄で働きながら、もう一度東松島市に戻れるかどうかの判断を考え続けた。ようやく大丈夫だと、自分で判断出来るようになったのは7月頃。それでも、やっぱり戻るのには葛藤があった。何より、沖縄で生まれたばかりの息子が心配だった。


そうこうしている間にも、震災後の海では魚達が変わらず家の前を通り過ぎていた。夏場から漁を再開していた父親からも「今年は大漁だぞ!」と話は聞いていた。これから鮭が獲れ始める10月〜11月も、大漁はほぼ間違いない。今帰らなくて12月に帰ったとしても、その時に自分は用なし。帰るのを決めるのは、自分の気持ちだけだった。そして2011年10月、鮭漁にあわせて、妻と子供を置いて1人東松島に戻り、父親と鮭漁に取り組んだ。

それから3年が経つ今、仕事は震災前のゼロベースにまで戻り、正直一安心が出来た。ここから、これまでと変わらず海と一緒に、自分の足腰に踏ん張りが効くまで、ずっと魚を獲り続けるのが夢だと言う。
1つ新たに加わった夢がある。妻も息子も2011年の12月に、沖縄県から再びこの街に戻って来た。だからこそ、この先10年、20年後の息子の選択肢に“漁師”というものが入っていて欲しいと。その時、“漁師が喰えない“って状況にだけはしたくない。

「息子が、俺みたいになったらって思う。楽しく海と生きて欲しいなぁ。だって、楽だもん。」そう豪快に笑い飛ばし、今日も彼は海と向き合う。

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文/写真:太田将司 2014.08

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