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4.“女子って、いったい誰が作ったの?”/尹怡景

障壁から
堅く閉ざされていた
扉を開けて
ノラを自由にさせてくれ

장벽에서
견고히 닫혔던
문을 열고
노라를 놓아주게
ナ・ヘソク、「人形の歌」、『毎日申報』

イ・ミンギョン『脱コルセット 到来した想像』 第11章「今、ここから、別の世界へ」より

不完全な脱コルの実践

 先日、普段使っていたプラスチック製ボトルのシャンプーをシャンプーバーに変えた。私は立派な環境活動家ではないが、人類が直面している気候危機から目をそらしたくもなかった。今までのあらゆるライフスタイルを全て変えるには私はあまりにも弱く、欲望に満ちた人間だった。しかしそんな私でも、タンブラーを持ち歩いたり、エコバッグを持参してレジ袋の受け取りを遠慮したり、季節ごとにファストファッション・ブランドで新しい服を買うことをスキップしたり、どうせなら牛肉よりは鶏肉を選ぶほどの勇気を出すのはそう難しくない。2回食べるアボカドを1回に減らすこともだ。私はストイックで完璧な環境保護活動家にはなれないが、日常の中で不完全で小さい、しかし能動的な実践をすることならできる。誰かはいう。それが何の意味があるのか。確かにその通りなのかも知れない。このようなちょっとした行動は氷河が溶けることも、アマゾン熱帯雨林の破壊も直ちに止めることはできない。しかし私は確信する。私のように気候危機に共感する惰弱で不完全な実践者が増えれば、いずれ有意義なムーブメンをを作り出すことができると。どこかで気候危機に関する記事を読んだことがある。その記事でこんな文章を見て、ものすごく共感した。

「100%を完璧に実践する一人より、不完全な10%を実践する100人の方がましだ」(正確なものはなく、大体こんな旨の文章だった)。

 それまで「たかが私一人」と思っていた私は、この言葉にすごく勇気づけられた。そして100%全力での実践ではないと偽善者になるのではないかと心配していた過去の自分がバカみたいに思えてきた。むろん、個々人の小さな行動より社会的かつ国家的で大きな変化が切実であることは紛れもない事実だが、だからといって、個々人の小さな実践を無意味なことだと貶めるのは正しくない。結局、社会や国家を構成するのは個々人なのだから。

  フェミニズムも一緒だと思った。

「江南(カンナム)駅事件」以来、女性人権に対する韓国社会の急進的な変化は実に驚くべきものだった。(もちろん、まだまだ先は遠いけど…)いわゆる「ラディカル·フェミニスト」たちが登場し、LGBTQに対する社会の理解促進や権利擁護を訴える声が高まった。一方ネットを中心に「脱コルセット」の定義をめぐって、ある種の検閲基準みたいなものも登場した。髪を短く切って、リボンやレース、ピンクなど「いわゆる女性性」の象徴を積極的に排除し、男性用のパンツや下着を履いたり、全ての化粧をやめた人だけが真に脱コルを成し遂げたフェミニストであり、そうでないものはフェミニズムを語る資格がないというなどの激論が交わされた。

  私は、究極的に社会構成員の皆がフェミニストにならなければならないと考えている。しかし、今すぐ丸刈りになるつもりはなかったし、持っている化粧品を全部捨てることもできなかった。そして私は本当に心からピンクが好きだ。色のピンクも、歌手ピンクも。(ちなみに歌手のピンクは、今年7月に行われたビーチハンドボール欧州選手権で罰金覚悟でビキニのユニフォームを拒否して短パンを着用したノルウェーの女性選手たちの罰金を肩代わりにすることを明らかにした。さすがカッコイイ!そして同年10月、国際ビーチハンドボール連盟はようやく、時代遅れの変なユニフォーム規定を変えたそうだ)。だとしたら、こんな私は「本当のフェミニスト」じゃないのだろうか?まあ、確かに彼らの判断基準に従うとそうなるのかもしれない。

  しかし、フェミニズムに会った後の私は、内面の自由を見つけ出した。私はもう、毎朝、カール・アイロンでゆるふわな巻き髪を作ることに以前のように熱心に取り組まない。定期的にまつげエクステを受け、毎日のように行っていた丁寧なフルメイクも今はほとんどしない。完全にやめたというよりは、自分がやりたいときにだけするようになった。以前は義務付けられたように行ってきた強迫的なルーティンを、自分の「選択」で行うようになったのである。最近は日焼け止めやリップクリームだけで済ませる日がほとんどで、昨年はコロナ禍の影響もあったが、フルメイクした日は5本の指に数えられる。まさに「本当に自分が化粧したい日」にだけ化粧するという選択肢が増えたのだ。「@@もしなかったのに、外出なんて無理!」という呪縛から解放されたことだけでも、何だか自分に誇りを感じるようになった。そして、余った時間は自分と向き合う時間として使うようになった。

  何かを目指すときに、私たちは必ず全てが100%完璧でなければならないのだろうか。しかし「なんの矛盾もない100%完璧な実践」というのは、実は幻に過ぎないかもしれない。だから私は今の自分に無理なくできる、小さな実践に同参することで、巨大なムーブメントに乗りたい。共通の目的に共感する人々、不完全で不誠実な10%を実践する私のような凡人が増え続けると、社会はきっと変わり始める。だから、忘れないでほしい。全ての大きな変化はほんの小さなことから起こる。たかが一人、されど一人。

We should all be feminists!(私たちは皆フェミニストになるべきです)。

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尹怡景(ゆん いきょん)
韓国・ソウル生まれ。慶應義塾大学大学院で文化人類学を学ぶ。
言葉で 韓国と日本の心をつなぎたい翻訳者。
訳書に『差別はたいてい悪意 のない人がする』(大月書店)、『夢を描く女性たち イラスト偉人伝』(タバブックス)。


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