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壊される言葉たちに

「言葉」というものが好きだ。
好きな理由なんかいかようにも用意できるが、古今和歌集の序文じゃないけど、言葉のいろんなことを可能にしていく力に心惹かれるのだとおもう。

ただ、好きだからこそ機能的な欠陥や、限界も承知していて、それが未だにnote以外のSNSに手を付けていない理由でもある。

例えば、Twitter。
わたしには、そこが高速道路と戦場を足したくらいの光景にみえる。
ものすごい速度でいろんな車が通っていて、その間では砲弾が飛び交い、様々な事件や事故が起こっている…そんなイメージ。
(今やそれはなんの比喩でもなくなってしまっているようだけれども)
もし会社から支給された装甲車でもあるようなら話は別だが、丸腰のまま突っ込む気には到底なれない。
日々つつましく生き、ニュースやら新聞やらで見聞きする世界のあれこれだけで充分精一杯なわたしには、その他大勢のいざこざは刺激が強すぎる。
用法容量を守ったら薬になるのかもしれないけれど、基本的に原液のまま垂れ流されるそれは劇物以外のなにものでもないではないか。
いつ流れ弾が飛んでくるかわからないし、なにに狙われるかもわからない。

だから、この『まとまらない言葉を生きる』という本のテーマを知って、とても気になったし、読めてよかった。

この本は、まえがきにあるように、「言葉が壊されつつあるということを悔しがる本」だ。
今、どこをみても言葉や情報があふれているが、その猛スピードで消費されていく言葉の多くが、弱っている人を更に追い詰め、言われた人だけでなく、うっかり見聞きしてしまった人や、結局言った本人も傷つけるようなしんどいものばかりになっているのではないか。
そのせいで、言葉が本来もっているポジティブな生命力のようなものがどんどん損なわれているのではないか。
その事実に警鐘を鳴らしつつ、言葉の本来のポジティブな力について、具体例を積み上げる形で抵抗しようとしている。

そのため、この本には悲しい言葉やショッキングな事実が書かれている。
(保活に疲れた女性の絶望の言葉は、胸に詰まるものがあった。こんな言葉が出てくる社会が健全ものであるはずがないとおもう)

「自己責任」という言葉の不気味さは、わたし自身普段からおもうところがあって、こういうことが言いたかったのだ、と我が事のように納得したりもした。

ただ、1冊を読み切って、ちょっと物足りない気持ちもあるのだ。
それはたぶん、サンプルに少々偏りがあるせいだ。作者の専門分野から多く選ばれているので仕方ない部分もあるのだろうが、もっと多彩な、いろんな立場の悩めるフツーの人たちのポジティブな言葉もみたかった。
ニュースになりそうもない人たちの、でも当人たちにとっては重要な言葉…言葉の本来の力というものを考えたときには、そういうものがもっと必要なのではないだろうか。
あるいは、もっと大人げなく、みっともなく、言葉が蔑ろにされてしまっている事実を切実に悔しがって、悲しがっていいような気がしてしまう。
(先生という立場だと難しいのかもしれないけれど)
そして、もっと言葉の力を全力で信じているのだという姿勢をみたいようにおもってしまう。

だから、この本の続きは、わたしがわたしのために勝手に続けてしまおう。
「言葉が壊されようとしているよ、かなしいね」で終わらせてしまうわけにはいかない。言葉好きのひとりとして、このまま言葉の終末を悠長に眺めていていいわけがないのだ。
言葉の力は、人の善性は、まだまだこんなもんじゃないと、例え誰に評価されなかったとしても、たのしんどいを味わいながらやっていけばいいのだから。

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