無題

始めに。
この文章には読む人によっては
嫌な思いをされることがあるかもしれません。
創作の物語ですのでそのことをご了承の上
ご一読いただけますと幸いです。

本編

母は生まれつき体の弱い人でした。
出産に耐えられるかどうかわからない、そんなことを
父はお医者さんから言われたようで「不安だったんだぞ」
と話していました。

母は昔から朝が苦手な人でした。
眠い目をこすりながら毎朝台所に立って
朝食とお弁当の準備をしていました。

母は昔から誰にでも思いやり深い人でした。
愛情表現が上手く、僕や父のことをとても愛してくれました。
同じように、僕も父も母のことがとても大好きです。

父は昔からあまり多くを語らない人でした。
学校のことやクラブのことをたまに聞いては
「そうか」と低く相づちをするだけでした。

父は昔から誉めることをしない人でした。
成績がよくなっても、僕がクラブでゴールを決めても
「もっと頑張りなさい」と言うだけで
よくやったとは絶対に言いませんでした。
それを僕は激励だと思い、もっともっと頑張りましたが
それでもまだ、誉められたことはありません。

僕が就職で地元を離れて約5年たった頃、
母が体調を崩して入院しました。
いつか来るだろうと思っていたけれど
こんなに早いとは思っていませんでした。
月に一度はお見舞いに行きましたが
母は「無理して来なくてもいいのよ」
そう笑っていました。
でも、見る度に細くなっていく
母の手足を見ると不安で仕方ありませんでした。


冬の寒さが厳しくなってきた頃。
その連絡が来たのは僕がまだ会社のデスクに
向かっていたときのことでした。
上司が受話器を持って駆け寄ってきました。

冷たい女性の声を聞いてから
僕はコートも羽織らずにワイシャツ姿で
会社を飛び出しました。

タクシーに乗って一時間弱、
やっとの思いで病室に着いた頃には
いろいろな人がベッドの回りで声をかけ、
父さんは母に向かって
「よく頑張ったな。ありがとう。」
と言い、静かに涙を流していました。
父には母がもう長くないことが分かっていたようでした。
僕がベッドに駆け寄り
「母さん、母さん」
と声をかけると母は重たそうに首をこちらに向け
「お、大事な一人息子の登場だ」
と言って薄く笑いました。

「聞いてた?お父さんが、誉めてくれたの。
珍しくて笑っちゃうわね。」
「聞いてた。母さんしっかり。まだ俺母さんに恩返し、」
そこまで言ったところで、母は僕の言葉を遮るように
言いました。
「ちゃんとごはん食べなさいよ。また細くなった?」
「うん、ちゃんとする。約束する。」
それを聞くと安心したようにまた薄く笑みを含んで
涙を流しました。

命の終わりは唐突で
単調な機械音が流れるばかりです。
落ちた涙がほろりとこぼれ、その音は病室に響きました。
周りにいた大人たちが膝から崩れ落ち、
おうおうと声を出して泣きました。

もっと僕が側に居てあげられたらよかった。
もっと優しくしてあげられたら。
たくさんの感情の色が混ざって溢れだしたはずの涙は
キラキラした透明だった。

「最後まで、僕のことばっかりじゃないか」

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