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玄関の扉を少しだけ開けておいて

3か月ぶりに町をでた6月の雨の水曜日。くらがり渓谷をぬけて向かったのは、岡崎市千万町町に今月オープンしたばかりのネパール喫茶『茶流香』。

いつか森の中でカレー屋をやりたい僕は、知人のブログでこのお店のことを知って興味を持った。たまたま近くで泊まりの仕事が入ったので、その前の昼ごはんに行ってみることにした。知人のブログには「とにかくグーグルマップにも、もちろん食べログにも載っていない。そもそも店の看板がない。空き家を改造したというが、幹線道路にも面していないし、近づいても店とはわからない。今行きつけたら自慢できる。」と書いてあった。

営業日と営業時間は確認できなかったけれど、住所はわかったので車のナビに従って山奥の小さな集落に向かう。細い小さな坂を上がった先にそれらしき民家を見つけた(看板はあった)。県外ナンバーの車を店の前の道に停めて、マスクをつけて玄関への階段を上る。玄関の扉が少しだけ開いていたのでほっとして中に入り、奥の厨房にいた店主の藤井さんに「やってますか?」と声をかける。
「ごめんなさい、いまは木曜日と金曜日しかやってないんですよ」
今日は水曜日。
「いま仕込みをしていてカレーは出せないんですけど、よかったら入って珈琲だけでも飲んでってください」
遠慮しようかとも思ったが、せっかくここまで来たのだからとお言葉に甘えて、だれもいない店内にお邪魔して大きな窓の前のカウンター席に座る。10分後、藤井さんは丁寧に入れた熱い珈琲を出してくれた。その横には塩羊羹が添えられていた。昼ご飯を食べるつもりだったから、お腹が空いたなあ、カレーが食べたかったなあと思いながら、ゆっくり珈琲を飲みながら、仕込みに忙しそうな藤井さんと話すこともなく、結局40分くらい雨に濡れる森や田んぼや畑を眺めていた。
帰り際に珈琲代を払おうとしたけれど藤井さんは受け取ってくれなかった。じゃあ、また明日仕事終わりに来れたら来ますね、と僕は言った。

翌日、仕事を終えた木曜日。帰り道にふたたび立ち寄ることができて、無事営業中にカレーとチャイをいただくことができた。昨日の珈琲代はやっぱり受け取ってもらえなかった。じゃあ、また今度来ますね、とまた僕は言った。
カレーはとても美味しかったけれど、お腹を空かせながら窓際で珈琲を飲んで過ごした時間の方がなぜか心に残っている。

6月になったので今年もそろそろ社有林に行きましょう、と在野のクマの研究家の安江さんが言った。森に行く日を決めたものの特にこれといった目的もなかったので、他の人も誘って行ってみようという話になった。
社有林は町から遠いし、トイレも水道もない。急峻で足場も悪く草刈りもしていないので、人を招くようなところではない。だから、ちゃんとしたイベントではなく、「今度森に行くんだけど(特別な催しは何もなくて勝手に過ごしてもらうけど、それでもよかったら)一緒に行きませんか?」という呼びかけで人を募ってみた。

当日、よく晴れた夏至の日の午前中。東京の元自然保護官、群馬の大工、京都の書店員、愛知の設計事務所のスタッフが飛騨まで来てくれて、そこに虫捕り目当ての地元の元気な子供達とご両親が混ざった。
みんなで2時間ほど思い思いに森で過ごす。葉を茂らせる木々と蝉の鳴き声に囲まれて、蝮、沢蟹、木苺、桑の実、幽霊茸と。
せっかく遠くから来てくれた人たちに対して、ちゃんとしたガイドやおもてなしもできず、申し訳ない気持ちになるし、正直気疲れもした。だけど、みんな気持ちよさそうにしているので、まあいいかと思った。みんな、森に来れてよかった、また来たい、と言ってくれた。

別の日のある夜のオンラインミーティング。来月森に連れてってほしいというアロマキュレーターの小林さんにその話をした。「ただ森に入って時間を過ごすだけのためになぜか全国から人が来てくれるんです」
「森に興味がある一般人にとっては、ただ森に入ることができないんですよ」と小林さんは言った。「森に行ってみたい」「森でこんなことをしたい」と言うと、林業関係者や専門家から「そんな簡単なことではない」「勉強が足りない」と怒られるのだそうだ。
それは、住所も営業日もわからない中、なんとか辿り着いたネパール喫茶の玄関の扉を叩いたら、鍵が閉まっていたり、中で仕込みをしている店主に「今日は営業日じゃないから」と追い返されて目の前でぴしゃりと扉を閉められるような気分なのだろうと思った。

もちろん、「中の人」の立場からすると、どんな時も扉を全開にしておくのは労力と覚悟が必要になる。たくさんの人に勝手に入られても困る。その気持ちもよくわかるし、たぶんそれが正しいのかもしれない。この前の森にだって木苺の下から蝮がでてきた。
だけど、藤井さんは、営業をしていない日でも、玄関の扉を少しだけ開けて、そこに辿り着いたマスクをした僕を「興味を持ってくれてありがとう」「来てくれてありがとう」と迎え入れてくれた。景色がよく見える窓際の席に座らせてくれて、珈琲を入れて、塩羊羹も添えて。

山の奥にあってとても不便でわかりにくいけれど、辿り着ければいつだって玄関の扉は少しだけ開いている。そこに入った人は、ゆっくりと時間を過ごして、なにかを満たすことができる。そんな森とカレー屋があればいい。

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