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手塚治虫『ブッダ』を読んで私は結婚することにした

こんなことを思う日は一生に一度しかないだろうなぁ。と部屋から池袋越しのシルエット富士山を見て思った。
 
私はなんだかぼんやりしていた。今の暮らしは安定しているし、仕事に不満はないし、穏やかに日々が流れている。
同居人とは結婚の話も出ていて、それは嬉しいことだったが、日々の生活においてめちゃくちゃ大きな感情の変化というのはなく、淡々としていた。淡々としていることが最も平和で幸せなことだとは、わきまえていた。ただ、なんとなく、ぼんやりしていた。
 
出張にかこつけて、実家に帰った。中学生くらいで読んだ手塚治虫『ブッダ』が読みたかった。
私の短い四半世紀の人生で、困ったときに助けてくれるのは仏教だった。今回は別に困っているわけではないけれど、なんか本能的に、仏教の教えを再確認したかった。
 
実家に着くと、祖父母が歓迎してくれた。私が年末年始に帰らなかったから、寂しかったらしい。祖父母は老いていた。88歳と86歳、目は見えにくくなり、耳は聞こえにくくなり、シワは増え、背丈は縮み、物の置き場所を忘れ、トマト(私の大好物)を買ったことを忘れ冷蔵庫で腐らせていた。それでも死ぬ気配は1mmもなかった。祖母の妹さんは脳梗塞で倒れたまま、意識もなく3年寝たきりとなっている。老いたまま生きながらえるのも、病のまま生きながらえるのも、苦しい。しんどい話や。
 
若き日に王子だったシッダールタは永遠に生き続けたいと思っていた。
ところが四門出遊をきっかけに、老、病、死の苦と出会い、生きている限り苦からは逃れられないことを知った。
 
帰省した次の日、高校の同級生に会いに行った。彼女には11ヶ月の子どもがいる。
11ヶ月の子は、母親曰く、まだ未知の生命体らしい。まだ人間ではない。私から見ると何が面白いのかわからないおもちゃをガチャガチャ触り、「おかあさんといっしょ」を一心不乱に見つめていた。この子は今、外界とのコミュニケーション方法を一生懸命探っているように見えた。
この子はふわふわで、もこもこで、むにむにしていた。臓器が新品だった(母親談)。
私は高校生の頃から発生生物学を勉強し、ニワトリやマウスの発生過程を解剖してきた。この子がどうやって形作られてきたのかは、一応知っている。でも、ヒトが形作られてから、人間になる過程のことは、全然知らないことに気づいた。私は、人間がどうやってできてくるのか知りたい。まだまだ知らないといけないことがある。
 
当時のインドでは(今も?)厳しいカースト制度で、僧侶>貴族>市民>奴隷>不可触民 とされていた。でもシッダールタは、僧侶も死ぬし、人間誰でも同じ生、老、病、死の苦しみに出会うことに気づいた。さらに動植物も同じ苦しみに出会うことに気づいた。生きとし生けるものすべてが平等に、いのちを持ち、いつかなくなることに気づいた。自分だけが苦しいわけではないと気づいた。「なんで永遠に生きることができないんだ」は贅沢な悩みとしても、「なんで私が病気になるのか」、「なんで私だけ差別されるのか」と思ったところで、自分よりもっとしんどい苦しみを抱えている人がいる。そしていのちは平等である。自分の苦しみ<他人の苦しみ であるときに、他人を救うのが人の正しい生き方だと、シッダールタは悟った。そしてブッダ(=悟りを開いた人)になった。
 
私は本を閉じた。そして決意した。
私はあの人(同居人。ブッダではない)と結婚しよう。
私は元々人のために生きている方で、つらい思いをしている友人に寄り添ったり、ホームレス支援や途上国支援に微力ながら協力してきた。しかしいくら人のために生きようとしても、他人である限り踏み込める範囲は限られる。24時間支えてあげたいと思っても、自分の生活や仕事もあるし、100%は尽くせない。でも、もしあの人が苦しんでいたら、きっと24時間100%尽くしてあげられるなぁ、と思った。今までも、小さな規模で互いが苦しいときには助け合ってきた。
 
理由1、苦しいときに助け合えると思ったから。
 
ブッダは、正しく生きるためには、正しく見て(正見)、考えて(正思)、話し(正語)、行動し(正行)、生活し(正命)、努力し(正精進)、念じ(正念)、決定する(正定)するとよいと説いた(八正道)。
人はひとりでいると、正しい生き方から逸れてしまいやすくなる、というのは以前から思っていた。正しく見たり考えたりするには、異なる見方や考え方との比較が必要で、自分の中でごちゃごちゃ考えてもあんまり良い考えは生まれない。だから考えるには相手が必要で、それにはあの人がぴったりだった(だいたい言い負かされるけど)。それにひとりでいると易きに流れがちだけど、誰かがいるときちんとすることも多い。
 
理由2、一緒にいると「正しい生き方」の方向に引っ張られる気がするから。
 
私の場合、正しく生きることには、人間ができる過程を知ることや、茶道も含まれる。ライフワークとして、生涯ゴールはなく追い続けるだろう。その傍らにあの人がいるのも良いかもしれない。

 
とはいいつつ、川端康成とか森鴎外に親しんできた私は、人間がどうしようもなくアホでクズで「悪い生き方」が得意か知っている。悪い生き方は、俗っぽく、面白い。しかも時々、美しかったりする。私も「正しい生き方」を生涯つらぬくなんて、到底できないなぁ。そう思ったのも束の間、ページを繰って私は安心した。
実はブッダは悟りを開いたあとも、悪魔に襲われていた。いろんなまやかしと戦っていた。悟りを開いたとしても、完璧じゃない。いわんや私をや。例えば30年後の私が何を考えているかなんて、私にもわからないし、夫婦の3分の1が離婚する世の中、あの人と死ぬまで一緒にいるかどうかなんてわからない。そういう事実も受け入れたうえで、しばらくの間はあの人と一緒にいたい。と、能動的に思った。
 
なんとなく『ブッダ』読みたいなぁ、と思って帰省して、思いがけず自分の中でいろんなパーツがカチカチと組み合わさって、ぼんやりしてたのがスッキリした。そして東京に帰ってきた。
 
家に着いて、帰省している間のこと、思ったことを全部話した。私の話は錯綜するし、同居人は仏教の教えとか知らんし、冷静に『ブッダ』読んで結婚する決意が定まったとか意味わからんけど、ちゃんと聞いてくれた。おまけに「話してくれてありがとう」とまで言ってくれた。なんかもうこっちが謝りたい気分! 稀有な人や。
 
理由3、私が意味不明なこと言い出してもバカにしないから。
 
まぁふつうドン引きするよな。
 
そんなこんなで意は決したものの、互いの事情により実際契約するのはしばらく先になる予定で、日々穏やかに過ごすのみ。知足。
 
周りに結婚してる人はいっぱいいるけど、皆さんどうやって決意したのだろうか。
私の場合、きっかけは『ブッダ』だった。
 
ブッダの教え=正しく生きること=他人を救うこと。そのために八正道を心がけること。
私にとっての四門出遊がここ数日の出来事だったのかもしれない。
 
《終わり》


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