6/25 「美術館女子」の記事で私が勝手に、悔しかったこと

少し前の日記で「美術館女子」に対するモヤモヤを吐き出した。

「アートに触れる楽しさや地域に根ざした公立美術館の魅力を発信」するために、「インスタ映えにのみ執着する無知な観客」として「美術館女子」という存在を用意し、カテゴライズすることへのモヤモヤを、とりあえず吐き出した。
その後、いろいろな記事が出たり(特に美手帖の記事はめちゃくちゃ腑に落ちる)、

テレビで取り上げられた(らしい。すみません、テレビ無いからわからない)ことで、またネット上で一瞬だけ話題になっていた。
ジェンダー的な「違和感」はとりあえず前回の日記でも触れているので(というか、ここだけ取り上げてなんやかんやいうと話がずれていく印象…)、ここでは、めちゃくちゃ隅っこながら美術業界の端くれで仕事している私個人の、今回のあれそれで気になった、でもずっと前から「美術業界」に抱いている、勝手な「お願い」を書き留めておきたい。

まず、やはりこの企画が、美術館側からはほぼノータッチだった、という事実は再度強調しておこう。「どうせ美術館の集客戦略だろ!」という意見を見かけて、ちょっと都現美が可哀想なので…。
美術館では撮影場所を提供する「館貸し」や、あるいは美術館自体の宣伝として「取材協力」を行なっていて、ある程度引き受ける案件は選ぶけれど(あまりにもイメージに合わないもの、については断ることもある)、基本的にその「内容」にはノータッチだ。「紹介記事」であっても、作品名や展覧会情報のファクトチェックのみで、内容まで深くタッチすることは基本的には無いはずだ。
という前提を強調した上で、今回の件だけじゃなくて、そもそもの「美術業界」が抱える問題、というか、難しいなーと日頃私が感じているところを吐き出させてください。

そもそも美術館の「役割」が矛盾している件について

まず美術館含め、博物館の3原則は「収蔵・研究・展示」だ。
ちなみに博物館法だと以下のように定義されている。

「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む。以下同じ。)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関

(「博物館法」の観点から話すと、「博物館」にも「登録博物館」と「博物館相当施設」と「博物館類似施設」があったりするのだけれど、それは今回は無視するので詳しい人、怒らないで。)

そしてそんな「博物館」の中でも「美術館」に絞った話をさせてください。
「美術館」に来る人がおそらく直接体験するのは、「収蔵・研究・展示」の「展示」の部分だ。もちろん「展示」のために「収蔵・研究」があるとも言えるのだけれど、実はここのバランスはかなり難しい。
なぜなら、「展示」することは「収蔵=保管」と相反することが多いからだ。「美術作品」、特に年代の古い作品は、「展示」により「劣化する」。どうしたって物は劣化するのだ。しかしこれは「作品をより良い状態で収蔵・保管し、後世に伝える」と言う使命を持つ美術館としては、かなり厄介な事態だ。そう、美術館は実は原則の時点で矛盾を抱えている…。どうすれば…。

作品保護を第一に考えるなら、「展示」しないのが一番だ。しかしそういうわけにはいかない。
「作品保護」を行わないといけないその一方で、美術館は教育施設として、作品を広く一般に「公開する」という使命がある。
まさにあちらを立てればこちらが立たず、なのである。

だから、どんな美術館も、「作品」のコンディションに気をつけながら、なんとか沢山の人に見てもらえるように苦心している。
あの邪魔なガラスカバーも、足元の危ない暗い照明も、肌寒い室温も、ちょっとの期間で展示替えしちゃうのも、みんな、なんとか作品の劣化を最小限に留めつつ、「展示する」ための苦肉の策だ。うん。頑張ってる。

「展示」は「教育」

で、そもそもなんでそんな大変なことしながら「公開」しないといけないかっていうと、それが私たち一人一人の「教育を受ける権利」に結びついているからだ。
そう、私たちは「作品を観る権利」を持っているのだ。
でも多分、あんまりこれってピンとこない話なんじゃないだろうか。というか、個人的にはこの接続が上手くいっていないのが、日本の美術界隈の問題、とか言うと何様だよって感じですが、もうちょっとどうにかならんかなーと思う部分だったりする。

そもそも「展覧会」って何か、と言うと、
「美術作品」そのものを楽しむ場
でもあるけれど、
「美術作品」を通して、ある「人物」、ある「時代」、「歴史」、「地域性」、「文化」、「哲学」、エトセトラエトセトラ…を研究し、それを、みんなに共有しよう、ってための装置
でもあるだろう。多分。

展覧会の成立の歴史とか見ていくと、色々とそうじゃない部分もあるし、当然、そうじゃないこと(例えば人々が集まるためのきっかけ、だったり、実験場だったり)である場合も多々あるのだけれど、展覧会のカタログには必ず、学芸員や研究者の論文がついているように、やっぱりそれは、何かを「知るため、考えるため」のものなのだ。

展覧会のキャプション、音声ガイドやガイドツアー、展覧会カタログ。
これらは全部「作品についての解説、付属情報」で、何かを「知るため、考えるため」のヒントだ。
どちらかと言うと、「キャプションばっかり読んでて、作品を観てないのでは?」なんて思ってしまうほど、キャプションの前に人が集まる光景はあるあるなのだけれど、でも、そんなに熱心に「作品解説」を受け取っても、それを上手く「ヒント」として使いこなしている人は、案外少ないのかもしれない。

最近の美術館業界は「教育普及活動」に力を入れていて、「教育普及専門」の学芸を入れているところも多い。ワークショップやったり、冊子を作ったり、学校への出張授業やったり色々と意欲的な館も多いのだけれど、それでもなかなかどうして難しいのが「鑑賞教育」、つまり展覧会に来る人がずっと、何気なくやっている「作品を観る」ってことだ。
日本の美術教育、小中学校の図工の時間を思い出してみると、多分ほとんどの人にとって、それは「作る」ことだっただろうと思う。私はそうだった。
義務教育の中で、散々「描いてみよう」「作ってみよう」はやってきたけれど実は「観てみよう」って、全然やってきていないのだ。そりゃあ大人になって美術館いかないし、作品の「見方」なんてわかんないよ。

6/14の日記でも書いたのだけれど、私は別に「美術鑑賞」に絶対に「知識」が必要だとは思っていない。よく言われるような「何にもわからなくても」「ただ感じるまま」で楽しめる人は、それで全然問題ないと思う。もしかしたら天性の直感があるかもしれない。
「美術作品そのもの」を楽しむには、「知識」がない方がいいかも知れないしね。
ただ、「感性だけで楽しむ」ことができる人ばかりではないし、「感性で楽しめてた人」も、作品によってはそういう見方ができないかもしれない。
「楽しめない」から「見ない」というのも選択肢の一つであるのだけれど、でもここでちょっと「知識」ーーそれは作品についての「知識」というよりは、「作品を鑑賞するやり方」だーーを知っていると、急に楽しくなったりすることもある、かもしれない。
「美術作品そのもの」を楽しんで、そうして、「作品を通じて」他のいろいろなことだって、興味深く考えられるかも知れない。

そして、そんな「わからない」「楽しくない」を、「わかるようにする」「考えてみようと思わせる」「興味を刺激する」のが、本来、美術館の、美術教育の役割なんじゃないかと思うのだ。
だって展覧会は、私の知らない何かを「知るため、考えるため」のものなはずなのだ。

美術業界が「わからなくても楽しめる」と言っちゃっていいのか?

だから私が個人的に、「美術館女子」の記事の中で一番「あー」ってなった部分は、たとえ都現美はノータッチだったとしても、美連協が入っている記事で「わからなくても楽しい!」って、その「わからなさ」を全肯定した点だったのだ。
鑑賞者が「わからないけど楽しかった!」と言うのは全然問題ない。わからないで観に来るのは全然構わないし(私も全然わからないで行く)、結果として「わからないまま」でも全然いい。
だけど、美術業界の側から「わからないけど楽しめるでしょ⁉︎」って言うのは「お前が言うな〜!!!」って気になってしまう。
それは、「教育機関」であるはずの美術館が、「教育」を放棄していいのか?というモヤモヤだ。
「全員を、わかる、ようにしろ!」って言っているんじゃない。ただ、「それを必要とする人が、わかる、ための努力を放棄するな!」って思ってるだけなのだ。

そしてこれは私の勝手な偏見による邪推なのだけれど、多分、美術業界側から「わからないけど楽しめるでしょ⁉︎」って内容で紹介される作品ジャンル、近現代美術の分野が多いのではないだろうか?

いやこれが「宗教美術」とか「ルネッサンス」とか「狩野派」とか、そこそこの年代を経ている美術作品だと、「わからないけど楽しめるでしょ⁉︎」なんて文句で紹介されることって、あんまりないような気がするのだ。
だって「言えること」がいっぱいあるし。
それこそ歴史的な背景を説明してもいいし、当時の宗教観に繋げてもいいし、技法の説明とか、当時の文化論をしてもいいし。

例えばダ・ヴィンチの「受胎告知」を挙げて、青色を纏うのは「マリア」のシンボルだとアトリビュートの解説をしてもいいし、そこから、目で見る聖書としての「教会壁画」の話をしてもいいし、当時の教会の役割なんかに繋げてもいい。
これがもし「宗教画」の展覧会の一作品なら、まさしくそう言うテーマで「考えてみてください」と言っているのだろう。
あるいはダ・ヴィンチの業績から「ルネサンス」について学びを深めてもいい。これがもし「ダ・ヴィンチ」展、あるいは「ルネサンス期の巨匠」展、なんてものの一作品なら、ダ・ヴィンチの多彩さ、ルネサンス時代における宗教画のあり方、なんて見方から作品を考えてみることができるかもしれない。
勿論、作品それ自体の技法とか、画材とか、そういう話をしてもいい。

過去の作品はその年月の分、ずーっと研究されていて、もちろん新しい研究成果もあるけれど、でもすでにある程度はっきりとした「言説」がある。
でも、「近・現代美術」って、まだはっきりとした「言説」ができていないのだ。なんせ「現在進行形」なので。
(多分、他の分野でも「現代」って扱いにくいのだろうと思う。現代音楽、とか、現代詩、とか諸々。特に文化における現代って、なかなかどうして得体が知れない。まだ「語りえない」部分が多いので。ただ、その分、「今、歴史が作られている!」的な楽しみも大きいのだけれど。)

例えば近・現代美術では(というより、歴史ってそうなんだろうけど)「過去のものを否定する」動きが大きな一つの流れとしてあった。「過去を否定して、新しいものを作って」を繰り返して進んでいったので、「そこに至るまでの流れ」を知らないと、「なんでこんなことを?」ってなって、全然理解できなかったりする。
加えて現代美術の主流の(といっても、どこか主流になるのか、は現時点では見えなかったりするのだけれど)作家、そして研究者や批評家も「モダン→ポストモダン」の流れや、「美術史以外の近代史、思想史・文化史・社会的運動」を前提にしているところもあって、余計に議論が複雑になっている。
最も、美術は「社会・世界の動向を写す鏡」みたいなものなので(と、私は勝手に思っている)、だからそれも当然なのだ。
美術史を見れば社会の流れがわかる、と思っているけれど、反対に、美術を語るには幅広く社会の流れを知っておかないと、理解できない。場合もある。学ぶべきことが多すぎるよ…!

そう考えれば、すでに洗練され、要点がはっきりしている過去の美術作品の解説よりも(考えないといけない歴史、現代より短いしね)、近・現代美術の説明が複雑で難しく、わけわからなくなる傾向にあるのも、当然かもしれない。どうしたって探り探りだし。

でもだからって、美術業界側が、その説明を放棄して、「わからないけど楽しめるでしょ⁉︎」って強要するのはどうなの〜⁉︎と言う思いがどうしても消えない。
いや、もちろん美術館の現場がめちゃくちゃ頑張っていることも知っている。
いい展示(それは設定するテーマとか、作家の集め方とか、構成とか、論考がいい、とか色々だ)は、現代美術のものにも、勿論めちゃくちゃたくさんあるし、それを「どう語るのか」も工夫されているのが見てわかる。
最近だと、千葉市美の「目」展は、美術館の改装時期を上手く使った面白い展示だったし、論考を星野さんにお願いしているところが、個人的にはめちゃくちゃ刺さった。
そう、学芸が頑張っているのを知っているからこそ、余計に、「わからないけど楽しめるでしょ⁉︎」って結論を押し付けている(ように見えてしまった)ことが、モヤモヤしたのだ。多分、悔しかったのだ。

現代美術を学んでいた大学生の頃、私は、意味がわからない「現代美術」を、それでも何かしらの「興味を持って観られるような」、「鑑賞するためのヒント」になるような美術批評が書きたかった。
作品の意味も、楽しみ方も、そもそもどうやって観ればいいのかわからない、得体の知れない「作品」を前に、それでも「あーこういう見方したら面白そうかも」とか、「この問題から考えると、興味深いな」とか、あるいは「この人はこう言ってるけど、こういう意見はどうなんだろう」とか、そんな風に、一人一人が「考える」ためのヒントを、何かの形で提示できる人になりたかった。

残念ながら、そうなれていない私がこんなこと言うのは烏滸がましいにも程があるのだけれど、でも、どうか美術業界の人には「伝える」ことを諦めないでほしい。
「わからないけど楽しめる」けれど、「わかったら、こんな楽しみ方もできる」っていう可能性を提示し続けていてほしい。
これが私の個人的な、めちゃくちゃ勝手で横暴なお願いだ。

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