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「いただきます」の文化から|はじめての動物倫理学

AIに対する理解を深めるために社会哲学者・稲葉振一郎氏の『社会倫理学講義』を読み進めると、同じく哲学者である田上孝一氏の『はじめての動物倫理学』に出会いました。多様性が求められる社会に、どこまでを「私たち」と定義するべきなのか。社会の変化する速度は意外と早いのかもしれません。

 昨年末のこと、顔の見える牛の肉を戴いた。知り合いの料理人が初めて、生まれた時から育てた雄牛の肉だ。一流のシェフが食材にこだわるのは当然で、焼肉の専門家である彼が、熊本の畜産農家と一緒になって育てた黒毛牛は全身がA5等級の特別な一頭だった。名前も聞いている。ちゃんと登記されているから、父母の名前も、祖父母の名前も知っている。SNSに度々投稿される写真を通じて、30ヶ月に亘る成長を見守ってきた。その間に作り込まれたであろう美しいサシが、口の中でとろけるほどの柔らかさを誇っていた。自給自足でも行わない限り越えられない確かなトレーサビリティを以って、命を食すことをありがたさを再認識したのだった。

 今、牛を育て、食べることの是非は、主に環境の観点から議論されている。増え続ける人類が自らのために生産する牛は、ガソリン自動車と同じように地球に負担をかけているのだ。ゲップとして吐き出されるメタンガスに限らず、牧草の生産・輸送など、牛の飼育工程においては大量の温室効果ガスが排出される。日本国内における牛肉の年間消費量は一人当たり6kg。ガソリンに換算すれば60Lに相当する環境負荷を生み出しているという。それを低減するために、培養肉などの食品代替品に期待が集まっている。

 一方、それ以前から食肉の工業生産には非難の声が上がっていた。「かわいそう」、つまり人道的でないという意見である。哲学者・田上孝一氏の著書『はじめての動物倫理学』を読んで、これが学問分野として成立していることを知った。人間が地球環境の一部であることを再認識する人新生の時代に、多様性を受け入れようとすれば、人間と牛との違いは極めて小さくなるのだから、人ばかりが平等に生きる権利を主張する社会は決して公正・公平とは言えないだろう。しかし人権ですら十分に守られていない現状に、何が動物の権利かという反論はもっともだ。私自身もそう思う。

 田上氏は「しかしここで考える必要があるのは、現在の我々が直ちにその悪を実感できる人種差別も、ついこの間までそれが当然だと考える多くの人々と文化があったということである」と述べる。「そして南アフリカでアパルトヘイトが撤廃されたのは実に1994年になってからのこと」だと。なるほど、30年後には社会の価値観が大きく変わっている可能性は否定できない。それまでには黒毛和牛よりも美味しい培養肉が量産されるに違いない。今や何かと目のかたきにされているプラスチックでさえ、1960年代後半に乱獲の進んだ象牙の代替品として開発されたセルロイドが始まりだった。

 「END PLASTIC WASTE」を掲げるアディダスは、2024年までにプラスチック素材であるポリエステルの新品利用を停止するという。その一環として、定番スニーカー、スタンスミス(Stan Smith)のアッパー素材を天然皮革からリサイクルポリエステルに置き換えた。スニーカーとは言え本革の使用は一級品の証であって、自らそれを辞めたアディダスの決断は大きいだろう。見た目も性能も、天然皮革とほぼ変わらないとされる人工皮革だけれど、環境意識の高くない日本においては人気の低下も懸念される。

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 結果的に消費の抑えられるであろう牛の革は、食用肉の副産物として作られている。そのため、動物倫理学の観点での批判はそれほど多くない。ただし今後、食品代替が進めば付随して生産量が減少するのだから、必然的に希少性の高いものになるだろう。それを残念に思うのか、当然に思うのか。もしも顔の見える牛の革で作った靴であれば、今よりもずっと大切にするに違いない。雨の日の使用は避けて、履いた日の週末にはピカピカに磨いて。そういう行為が豊かだと思える社会であれば、今からちょっと楽しみになる。日本には万物に感謝を示す、「いただきます」の文化が根付いているのだ。

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