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砂漠とスプリンクラー|短編小説

 僕は砂漠を歩く旅人になった。

 ――カッカッカッカッカッ……。

 目指すのは、誰もいない校庭で水と一緒に奇妙な音をまき散らしているスプリンクラーだ。あの音のせいで、読書に集中できない。無駄に広い校庭、壊れたスプリンクラー、そしてこの暑さ。何もかもがしゃくに障る。
 今日は部活が全部休みで、学校にいるのは数人の先生と、夏休み中に家で居場所を失った「難民」と、僕のような暇人だけだ。あのスプリンクラーを直そうとする奴はいないだろう。

 ――やれやれ。

 昇降口から一歩踏み出すと、その一歩をくじくかのように熱風が校庭の砂を巻き上げ、たまらずに目を閉じて立ち止まる。蝉の大合唱に「そんなに必死で鳴いたら、ただでさえ短い寿命が余計に縮むぞ」と心の中で毒づいて、また一歩一歩ゆっくりと足を前に出す。

 人気ひとけのない校舎もそうだが、誰もいないグラウンドは調子が狂う。いつもはあっちに野球部、こっちにサッカー部、向こうにテニス部、いろいろな音や声が飛び交っている。ガヤガヤしていて、ソワソワしていて。それが日常で。映画で「地球から自分以外の人間が消えてしまった」みたいな設定があったけど、それに似ていて、何だか胸の辺りがザワザワした。

 スプリンクラーの周りは小さなオアシスになっており、ひとまず砂漠の旅は終わった。ここまで来れば、干からびて倒れることはなさそうだ。
 オアシスをつくりながら「カッカッカッカッカッ……」と悲鳴をあげるスプリンクラーに同情する。これだけ太陽が仕事をしていれば、スプリンクラーも壊れるわけだ。
 困ったことに、来たところで直し方がさっぱり分からない。しばらくスプリンクラーに動きを合わせてぐるぐる回ったあと、付け根部分の金具を左右に動かし、トントンと叩く。突然、水が止まった。

 ――あれ? 壊れた?

 慌ててノズルを覗き込むと、その高さと形状から、何故かスプリンクラーがマイクとマイクスタンドに思えてしまい、思わず「あー!」と叫んでしまった。その瞬間、勢い良く水が吹き出し、僕の眉間にジャストミート。「ぬお!?」と情けない言葉を発して仰け反ると、後ろの方で誰かの笑い声が聞こえた。慌てて振り向くと、ホースを繋いでいる蛇口のところにTシャツとショートパンツ姿の女子生徒が1人。どうやら僕の他にも旅人がいたらしい。

 ――見られた!? 聞かれた!?

 スプリンクラーに向かってシャウトしている姿など、例え冗談でも人に見られたくない。アブナイ奴だと思われてしまう。

「ほらほら! 後ろ!!」

 1周したスプリンクラーの水攻撃をしゃがんでやり過ごすと、僕は小走りに笑い声の主の元に向かった。知っている生徒だ。

「期待通りのリアクション、ありがとう」

 女子陸上部・部長の佐伯さえきさんはハンカチを差し出した。それを「いや、持ってる」と制したのは、期待通りのリアクションをしてしまった自分に何となく腹が立ったから。

「見てた?」
「全部ね。大丈夫よ。誰にも言わないから」
「それは助かる」

 見ていたのが佐伯さんなのは不幸中の幸いだ。彼女なら僕のことをアブナイ奴なんて思ったりしない……と思う。

「図書室の窓が開いてて、まさかとは思ったけど、やっぱり藤村ふじむら君だったのね」

 佐伯さんは呆れ顔で言う。

「吹奏楽部の部長さんはスプリンクラーの修理もやるの?」
「たまたま止まってるのが見えたから来ただけ」
「部活休みでしょ? 何で学校にいるの?」
「自主練だ、自主練」
「スプリンクラーでカラオケの?」
「そうだよ。高さがちょうどよかったんで」
「あ、そう」

 納得したのか、それとも興味がなくなったのか、矢継ぎ早の質問はパタッと止まった。不意に訪れた静寂に、スプリンクラーのシャッシャッシャッシャッ……と水を撒く小気味良い音がやたらと大きく感じる。雲が太陽を隠し、蝉の鳴き声が小さくなった。湿気を含んだ風が僕たちの間を通り抜けて行く。

「インターハイ、連覇おめでとう」

 妙な空気に耐えられず、唐突にお祝いの言葉を発した。彼女は「ふふ、ありがとう」と、ちょっと遠慮がちに笑う。僕は落ち着かない視線を、壊れたまま回り続けるスプリンクラーに着地させた。

***

 佐伯さんは先日行われた全国高等学校総合体育大会、つまりインターハイの女子100メートル走で連覇を果たした。夏休みが終われば全校集会で表彰されるだろう。夏だけではない。何かの大会が終わるたびに、必ず表彰されるスターだ。
 1年の時からすでに活躍していた彼女を校内で知らない人はおらず、100メートル走と100メートル走で1位か2位しか聞いたことがない。高校陸上界でも名の知れた存在らしく、学校にマスコミが押し寄せたこともある。
 そんなスターはどこか近寄り難いイメージがあり、クラスのみんなは「やや遠巻きにチラチラ見ている」という感じだった。もちろん、僕もそのうちの1人ではあったけど、いつも休み時間に読書をしている姿は気になっていた。僕も吹奏楽と読書のために学校に行っているようなものだったから。
 高校2年のクラス替えで一緒になり、休み時間に思い切って「何読んでるの?」と声をかけたのが幸いし、本の話をするようになってからは、勝手にいだいていた「近寄り難い」というイメージはなくなった。まぁ、クラス内の男子からは「お前、佐伯さんといい感じなの?」とか「付き合ってるの?」とか、冷やかされることが増えたのが面倒だったけども。

 そんなある日――。

「フジ、佐伯はどうした?」

 剣道部主将であり、議長の宮本みやもとは僕を睨みつけた。その理不尽な圧に「僕に聞くなよ」とイラつきながら「さぁ、どうしたんだろうね」と空席になっている隣を見た。部長会議の開始1分前になっても佐伯さんは来ない。宮本は眉間にしわを寄せたまま資料の1ページ目をめくった。
 僕は数秒おきに出入口をチラチラ見るのに忙しくて、会議の内容が全く頭に入らなかった。元々部長会議なんてお互いの生存確認みたいなもので、内容が頭に入らなくても、それ以前に出席しなくても問題ないのだが、いつもいる人がいないのは、やはり気になる。
 結局、佐伯さんは最後まで姿を現さず、僕は会議終了後も眉間のしわが消えない宮本に「あとで佐伯さんに資料渡しておくよ」と申し出た。宮本は僕の顔も見ずに「ああ、頼む」と言い放つ。「議長の自分を軽く見られた」、そんな風に思っているのだろうか。そんな宮本を横目に、資料を持って女子陸上部の部室に向かった。宮本より、佐伯さんの方が心配だった。

「あのー、佐伯部長はいますか?」

 ジャージをたたんでいる1年生らしき生徒に声をかけると、不思議そうに「部長会議に出てると思いますけど」と言うので、「そう、ありがとう」と礼を言って部室を後にした。これで佐伯さんの行方不明が確定した。何かおかしなことが起きている。

 可能性は3つ。帰ったか、職員室か、教室か。

 一番可能性が高い教室に早足に向かい、中を覗き込むと、一番奥、一番後ろの席で机に突っ伏している生徒の姿が見えた。佐伯さんだ。慌てて駆け寄り、声をかける。

「……佐伯さん? 大丈夫? 体調悪いの?」

 佐伯さんは机に突っ伏したまま首を横に振る。どうしていいのか分からず、ただあたふたしていると、彼女はゆっくりと顔を上げ、頬杖をついて窓を見た。

 ――泣いている。

「大丈夫……何でもない。たまにね、こうなるの」

 僕は「ああ、そう」と言うのが精一杯で、その場に立ち尽くした。泣いている女子からの「大丈夫」ほど、大丈夫じゃないものはない。でも、ここでどんな言葉を発すればいいのか、どんな行動をすればいいのか、全く分からない。
 あまりにも気まずい沈黙に耐えられず、「じゃあ、僕、行くから」と言って逃げ出した。教室から出た時、彼女に渡すはずだった資料を握り締めていることに気付き、ポケットに突っ込んだ。なぜか、足は剣道場へ向かっていた。途中、宮本の後姿が見えた。「待て待て! ちょっと待て!」と叫びながら追い付き、宮本の正面に回る。

「佐伯さん、練習中に急に体調が悪くなって教室……保健室で休んでたらしいんだよ」

 僕は両手で自分のお腹を押さえ、「ほら、女子だから、な? 分かるだろ? な?」と、強引に同意を求めると、宮本の眉間のしわは、もうしわなのか何なのか分からない、未知の生物のような動きを見せた。

「妊娠か?」

 喉元まで「こいつバカか?」と出かかりながらも、ギリギリで飲み込んだ。

「ニンシンって、そんなにハッキリ言うなよ。そうじゃない。とにかく部長会議は無断欠席じゃないから」
「お前、わざわざそんなことを言いにきたのか?」
「そうだよ。大事なことだから」

 自分でもよく分からなかった。もしかしたら、泣いていた佐伯さんを前にして、何もできなかった自分を「ダメな奴」と思いたくない一心で、彼女を擁護ようごしているのかもしれない。

「あのな、体調不良ならそれでいいんだよ。あいつが部長会議をすっぽかすような奴じゃないってことは、俺だって分かってる」

 ――会議中、あれだけ機嫌が悪そうにしてたクセに!

 心の中で叫ぶ。宮本は「ふー」と大きく息を吐いた。

「フジ、なんでそんなにゼーゼー息切らしてんだよ。お前はあいつの何だ? 保護者か? 旦那か? ほどほどにしとけよ」

 眉間のしわが消えた顔で、穏やかな口調だった。あまりに穏やかで、まるで頭をポンポンと優しく叩かれたようで、恥ずかしくて何も言えずに立ち尽くした。宮本は「じゃあな」と、やっぱり優しい口調で言い放って、剣道場の中へと消えて行った。
 佐伯さんの「部長会議の無断欠席」の汚名は晴らした。これでいいんだ。僕は自分で自分を納得させた。

 ポケットの中の、くしゃくしゃになった資料を丁寧に伸ばし、帰り道の途中にあるコンビニでコピーを取った。佐伯さんの泣き顔と「はてなマーク」が頭から離れない。なんで泣いていたのか、いくら考えても分からない。だから「明日ちゃんと学校に来てくれよ」と願いながら、力一杯自転車のペダルをいだ。

 翌朝、少し早く教室に入り、佐伯さんの机の上に部長会議の資料を置いた。何度も何度も教室の出入口を見る。落ち着かない。顔を合わせるのが少し怖い。
 ホームルームの10分前に彼女は入って来た。僕は気付かないフリをして親友の山本やまもとにちょっかいを出す。ホームルームが終わったあと、彼女は周りの様子を伺いながら僕に近付いて来た。

「資料、ありがとね。それと……昨日はごめんね」
「ノープロブレム、アンド、ドントウォーリー」

 僕はグッと右手の親指を立てた。

「問題ない、心配するな?」
「テストに出ます」
「うん、覚えとく。ノープロブレム、アンド、ドントウォーリーね」
「そうです、ノープロブレム、アンド、ドントウォーリーです」
「あはは!」

 2人で声をあげて笑った。クラス中のみんなが見ていたが、全く気にならなかった。何より、彼女の泣き顔が笑顔に変わってホッとした。
 気のせいかもしれないが、佐伯さんは心なしか以前よりも明るくなり、周りの人と溶け込んでいるように見えて、僕はそれが本当に嬉しかった。

***

「勝負しよう。100メートル」

 僕は唐突に勝負を挑んだ。

「……走るの? 制服で?」

 彼女は困った顔をした。運動部ならまだしも、吹奏楽部の、しかも制服姿の人間に勝負を挑まれるなんて予想外だろう。理由なんてない。走りたくなったからだ。
 2人でグラウンドに出ると、蝉の大合唱が一段と大きくなった。太陽は相変わらずギラギラで、歩くだけでも汗が噴き出る。

「ここからあのスプリンクラーまで、ちょうど50メールだから」

 彼女はかかとでスタートラインを引いた。

「うっそ! 100メートルってこんなに長かったっけ?」
「走るの? 走らないの? どっち?」

 僕は「走ります!」と元気に返事をして、準備運動のつもりでぷらぷらと手首と足首を回した。その姿を見た彼女は「そんなんじゃダメダメ。私と同じようにやって」と、両手を頭の上で組み、ゆっくり体を右に、左に傾ける。

「こうやってゆっくり脇腹を伸ばすの。呼吸も大事だからね。ゆっくり吸って―、吐いて―……」

 普段、ジロジロと女子生徒を見るようなことはしないため、目のやり場に困る。Tシャツの裾がめくれて見え隠れする白いわき腹は、何とか見ないように努力した。
 人間は100パーセントの力を出すと、筋肉や骨に大きなダメージを負ってしまうため、脳が無意識に力をセーブしている。つまり、リミッターをかけている。しかし、一流のアスリートは、イメージトレーニングで意図的にリミッターを外す訓練をする。科学系のテレビ番組で、そんなことを言っていた。彼女はストレッチをしながら、そのリミッターを外そうとしているのだろうか。見よう見まねでストレッチをしながら、そんなことを考えていた。

「藤村君、ホントに白いわねぇ。私なんて見てよ、ほら!」

 彼女がTシャツの袖を肩までまくり上げると、白い部分と日焼けした部分がハッキリ見て取れた。僕はそれをまじまじと見ながら腕から首元、その下に視線を落とす。

「あ……」
「いや、ゴメンゴメン、つい……」
「いいわよ、別に」

 健全な青少年である証拠だ。僕は恥ずかしさを隠すように、クラウチングスタートのポーズを取ると「世界陸上じゃないんだから」と一蹴され、強制的にスタンディングスタートに変更させられた。 完全に「世界陸上」を意識していた僕は、気持ちいいくらい見事に墓穴を掘った。

「うーん、カッコ悪いわねぇ。上半身はこうで、腕はこうで、足はもっとこう……」
「結構キツいな、この態勢」
「文句言わない! 自分から言い出したんでしょう! 真面目にやらないと怪我するよ!」

 ピシャリと叱られ、18年の人生の中で、間違いなく最高の「はい!」が出た。僕は彼女のスイッチをONにしてしまったんだと確信し、同時に後悔した。

「悪いけど、手加減しないから」
「あの、僕は吹奏楽部――」
「スタートの合図、お願い」

 もう彼女に笑顔はない。彼女には、100メートル先しか見えていない。僕は大きく息を吸った。

 ――よーい……スタッ!

 1秒後、いや、0.5秒後には彼女の背中が見えていた。その後姿は見る見る遠ざかって行く。
 これが高校陸上界で一目置かれるスプリンターの実力か。同じ高校生のはずなのに、同じ人間のはずなのに……。
 あの時、教室で泣き顔を見た時、安心したんだ。「ああ、僕たちと同じ普通の高校生、普通の女の子なんだ」と。
 いや、僕は佐伯さんが羨ましかった。ねたましかった。いつも表彰台に立っていて、そこから僕らを見ていて……。
 可もなく不可もなく、その他大勢でもなく、「普通」とか「平均」が人間の形をしている僕とは違う。
 毎年、地区予選も突破できない弱小吹奏楽部で、夏休み後は引退が待っている僕とは違う。
 あまりにも真っすぐにゴールに向かって大地を駆ける佐伯さんの後ろ姿は、力強くて、美しくて、最高にカッコ良かった。

 ――クソッ!

 それに比べて、僕はカッコ悪すぎだ。

 ――カッカッカッカッカッ……。

 笑いながらスプリンクラーは僕に水をかける。彼女はすでにゴールしていた。ゴールした途端、顔から汗が滴り落ちる。彼女は「はい、お疲れ様」と、またハンカチを差し出し、僕はそのハンカチで顔を拭いた。「洗濯して返すよ」と言うと、ただ「ふふ」と微笑んだ。ゼーゼーと肩で息をしている僕とは正反対に、彼女の息は全く乱れていない。

「これをね、何度も何度も繰り返すの。100メートルを何本も何百本も走って走って、また走って……」
「やめたいと思ったことはない?」
「ないよ。藤村君は?」
「僕もないね。一度も」

 陸上だって、楽器だって歌だってダンスだってピアノだって、上達するには練習しかない。努力しかない。続けるしかない。もちろん勉強も同じだ。たまに「才能」とか「素質」なんて言葉に振り回されて、壊れてぐるぐる回ってしまうこともあるけれど。そう、あの壊れたスプリンクラーみたいに。

「さて、図書室に戻るよ。今日は本を読むために学校に来たんだから」
「私はもう少し走る」

 彼女は「じゃ」と小さく手を振り、また広大な砂漠へと飛び出した。

 ――カッカッカッカッカッ……。

 小さくなっていく背中をぼんやり眺めていると、スプリンクラーはその小さな背中に大きな虹を架けた。耳障りだと思っていた音が、まるで彼女に、そして僕らに向けて発せられるエールに聞こえた。

 この「校庭」という砂漠は、僕らにとっては広すぎる。広すぎて迷ってしまう。

 僕は再び旅人となり、来た道を真っすぐ戻り始めた。

(了)


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