「黒子のバスケ」脅迫事件 最終意見陳述3

"一連の事件の動機"

自分は「浮遊霊」であり今にも風で飛ばされそうな状態でした。そしてオタク化もネトウヨ化もできず、安定していませんでした。そのような自分が強引に仮設した社会とつながる弱い糸が3本ありました。「マンガ家を目指して挫折した負け組」「同人誌の世界の片隅の1人」「新大久保の住人」の3本です。これで何とか自分の存在感の希薄さをごまかしていました。

まず「マンガ家を目指して挫折した負け組」ですが、これは嘘です。そのような事実は全くありません。そういう設定にしておいただけです。自分はいわゆるクリエイター養成系の専門学校に2回も行っています。しかし初めからその手の仕事に就きたいとも就けるとも思っていません。自分は「生ける屍」ですから自分がありませんし、自分の意志もありません。だから夢を持ちようがありません。そして「埒外の民」でもありますから自分に可能性があると思っていません。

自分はまともに夢すら持てなかったことや、そのために努力すらできなかったことに強いコンプレックスを抱いていました。他人から見れば同じ負け組でしょうが、自分は「努力したけど負け組になった人間」でも「自らの意志で負け組になった人間」でもありませんでした。そのような意味で自分は負け組ですらありませんでした。せめて負け組でないと社会における存在資格がないと考えた自分は「マンガ家を目指して挫折した負け組」という設定を作っていました。その設定に基づいて経歴を詐称した履歴書をアルバイトの面接で提出したこともありました。

次に「同人誌の世界の片隅の1人」です。自分は中3の時に同人誌の世界を知りました。徹底的に孤立していて「安心」が全くなかった自分は、同人誌を読んでいる時だけ仮初めの「安心」を得ていました。同人誌の世界は自分が初めて出会った自分を拒絶しない世界でした。自分が同人誌を熱心に読んでいたのは22歳の頃まででしたが、それ以降も自分は同人誌の世界とつながっているという意識は持ち続けていました。

そして「新大久保の住人」です。自分が犯行を決意した時に住んでいたのはJR新大久保の近くでした。自分が新大久保を住まいに選んだ理由は、とても美味しいミャンマー料理が駅の近くにあり、その店にいつでも行ける場所で暮らしたいと考えたからです。残念ながらその店は自分が転居した日に26年の歴史に幕を下ろし、閉店してしまいました。新大久保は親元を離れて初めて独り暮らしをした街でした。自分は故郷からは拒絶され虐げられたという印象しかありません。新大久保は自分を拒絶しなかった初めての街でした。ミャンマー料理店の件は残念でしたが、それでも自分はそこそこ快適に新大久保で暮らしており、いつの頃からか「新大久保の住人」という意識も持っていました。

自分は逮捕されてからの取り調べで「黒子のバスケ」の作者氏の成功への妬み」と動機について自供しましたが、自分であまり納得できていませんでした。自分は検事さんに、

「もし自分の身近にジャンプで掲載したものの10週間で打ち切りになって、その後にマンガ家を廃業して全く関係ない仕事に就いている人がいたら、その人にも何か悪さをしていたかもしれません」

と申し上げました。これはずっと自分が思っていたことでしたが、検事さんにはスルーされてしまいました。検察の人事異動で自分の担当の検事さんが替わりました。その新しい検事さんによる最初の取り調べで、

「あなたの人生は不戦敗の人生ですね。それがつらかったんでしょう」

と検事さんから言われました。自分はその一言がきっかけで気がついたのです。自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったのではないのです。この世の大多数である「夢を持って努力ができた普通の人たち」が羨ましかったのです。成功した人たちは即ち努力した人たちです。自分は「夢を持って努力ができた普通の人たち」の代表として「黒子のバスケ」の作者氏を標的にしたのです。

自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功を見て「マンガ家を目指して挫折した負け組」という設定が嘘であり、自分は負け組ですらないという事実を突きつけられたような気がしたのです。キーワードはバスケと上智大学でした。この2つは自分の中で無意識裡に自分ができなかった努力の象徴となっていました。自分は重度のユニフォーム姿のフェチでしたからバスケは納得できます。ただ上智大学の方はその瞬間になるまで完全に忘れていました。自分の学歴コンプレックスがこのような事件を招いてしまうほどに深刻だったとは、自分でも全く想像できませんでした。

こうして「マンガ家を目指して挫折した負け組」という設定が崩壊し、社会とつながる仮設の糸が切れて、自分の存在が一気に不安定な状態になってしまったのです。

さらに「黒子のバスケ」の作者氏が新宿生まれ育ちと知り新宿の住民としても流れ者の自分より遙かに格上だと感じました。自分は新宿の街から、

「ホームレスの半歩手前の底辺のお前なんかより郷土の誇りである藤巻さんを選ぶよ」

と罵られたような気がしました。こうして「新大久保の住人」という仮設の糸も切れました。

そして「黒子のバスケ」が同人誌の世界でも人気が急上昇しました。自分は同人誌の世界から、「藤巻さんは元ネタの原作者という同人誌の世界の神だ。お前はその下の下の下の下に寄生する有象無象の1人でしかねえんだよ」

と罵られたような気がしました。こうして「同人誌の世界の片隅の1人」という糸も切れました。

自分は完全に糸が切れた「浮遊霊」の状態になりました。自分の存在が完全に消失したかのように感じました。不条理小説の書き出しの一文のようですが、

「今日自分を喪失した」

とでも表現すべき状態になってしまったのです。

自分は「浮遊霊」でしたが、それだけでは犯罪にはつながりません。「浮遊霊」がこの世に仇をなす「生霊」と化すかはまた別の話です。もし「浮遊霊」となったとしても大半の人は社会からの退場という選択をしますから犯罪には至りません。社会からの退場とは、お金に余裕があれば引きこもりでしょうし、最も選択する人が多い手段は自殺です。

この時点で「埒外の民」であるかはとても重要です。申し上げました通り「埒外の民」は自分が負け組になってしまった原因を把握できてません。一方で自分の苦しみと周囲からの怠け者としての評価の不一致から茫漠たる不満を抱えています。さらにティーン時代に使われるべき体力が不完全燃焼な状態で残っています。「埒外の民」は不発弾のような状態なのです。ただ実際に犯罪にまで突き進むには、もう1つのハードルがあります。

このハードルについて説明するのは難しいです。脳内のスイッチとでも表現するしかないのです。このスイッチが入ってしまうと「浮遊霊」は「生霊」と化してしまうのです。このスイッチは入ってしまうまで当人にも何がスイッチなのか分かりません。自分のスイッチは「たった1人のスーパーマンに全ての糸を切られたこと」でした。もし糸がそれぞれ別の人によって切られていれば標的を定めようがなくて、結局は自殺という形で社会から逃走したと思います。

長々と申し上げましたが、いよいよ結論です。自分が一連の事件を起こした動機は、「自分を存在させていた3つの設定の特に『マンガ家を目指して挫折した負け組』という設定を再び自分で信じ込めるようにするため」

です。自分は「黒子のバスケ」の作者氏の成功が羨ましかったのではなかったのです。底辺で心安らかに沈殿して生きることを「黒子のバスケ」の作者氏に邪魔されたと感じたのです。自分は静かに朽ちて行きたかっただけなのです。

はっきり申し上げまして、ほとんど全ての人には「はあ?」という動機だと思います。冒頭意見陳述には「気持ちは分かる」という反応がありましたが、そのような感想を持った人たちも自分が今回に申し上げた動機は全く理解できないと思います。また「他人事とは思えない」という反応もありましたが、自分の今回の説明でほとんど全ての日本人には全くの他人事であることは理解して頂けたと思います。

また自分は大多数の人たちから、

「『作者の成功の妬み』じゃカッコがつかないと思った渡邊がなんか哲学風な動機をでっち上げようとしてやがる。どこまでクズなんだ!」

としか思われないことくらい分かった上で申し上げております。

自分が申し上げました動機の意味不明さに既視感を覚える人も多いかと思います。2008年の秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告の「掲示板でのなりすましの荒らしをやめさせるため」という動機です。

自分は加藤被告の著書をしっかりと読んでみました。その中では「「自分」がない」という表現が多用されています。加藤被告が虐待的なしつけを受けていたという情報と合わせると、加藤被告は「生ける屍」だった可能性が高いです。また「孤立すれば、自殺はもう目の前です。(略)社会的な死は恐怖でした」との記述があります。加藤被告は一貫して孤立を恐れて居ます。つまり「浮遊霊」に近い状態であり「浮遊霊」になったら社会からの退場を選択するつもりでいるのです。「浮遊霊」化を回避するために加藤被告は必死で社会とつながる糸を仮設しようとしています。派遣の仕事、風俗嬢、出会い系サイトで知り合った女性、メイドカフェのメイド、事故車の修理を依頼した車屋、いつ遊びに来るか分からない友人、駐車場の管理人など普通の人ならすぐに忘れる行きずりの関係にまでつながりの糸を仮設しています。その儚い糸で事件直前に1本だけ残っていたのが「不細工スレの主」という糸だったのでしょう。それをなりすましの荒らしによって切断されたことで「浮遊霊」になってしまったのでしょう。スイッチが何かは分かりませんが、とにかくスイッチが入ってしまい「生霊」と化し事件を起こしてしまったのでしょう。加藤被告は人を殺したかったのではなく「不細工スレの主」というキャラを守り、社会とつながる糸を維持して心穏やかな生活を取り戻したかっただけなのだと自分に推測されます。

多くの人は「そこから通り魔殺人への飛躍が理解できない」と思うと思います。はっきり申し上げますが、自分の罪名が殺人にならなかったのは運だけで決まりました。社会とのつながりの完全喪失の危機を前にすると人間は思考力がなくなります。するとそのタイミングでたまたま頭に浮かんだことを視野狭窄的に実行してしまうのです。まさに溺れる者はワラをもつかむのです。車好きの加藤被告の頭に浮かんだことが、たまたま秋葉原にトラックで特攻するという手段だっただけであり、硫化水素による自殺を計画したことがある自分の頭に浮かんだことが、たまたま上智大学に硫化水素をばらまくという手段だっただけなのです。加藤被告と自分との違いは、たまたまその瞬間に思いついたことが違っただけに過ぎません。何を思いつくかなど、その時になるまで当人にも分かりません。

加藤被告は著書の中で事件はどうすれば回避できたのかも述べています。少し長いですが引用します。

「事件の発端であるトラブルは、人の数だけトラブルがありますから、対策することなど不可能です。(略)最後に「思いとどまる理由が無い」というフラグが立たなければ実行されませんから、思いとどまる理由を用意しておくことが、対策になるはずです」

その「思いとどまる理由」とは何でしょうか?再び加藤被告の著書から引用します。

「社会との接点を確保しておくことが対策になるといえます」

つまり社会とつながる糸を仮設して「浮遊霊」になるなということです。さらにこのような記述もあります。

「社会との接点は(略)私のように「自分」の無い人や、さらに家族も無い人は、その分、友人以下を普通の人以上に確保しておかなくてはいけないように思えます」

これはつまり「社会的存在」や「キズナマン」になれなくて強い糸がないのなら「友人以下」の弱い糸でもたくさん社会とつながないといけないということです。その「友人以下」の例としてボランティア、サークルや教室通い、個人経営の店の常連になる、宗教・スポーツ選手・アーティスト・特定の企業などの信者になる、キャバクラ、ペットを飼う、自分の店を持つなどを加藤被告は列挙しています。さらに、

「ネットしか無いのだとしても、掲示板の他、SNS、オンラインゲーム等、複数のコミュニティに参加すべきでした」

とも述べています。まさにオタク化の薬で糸を仮設しろという話です。しかしこれは根本的対策ではありません。対症療法の徹底強化です。自分はこの対策が効きにくいタイプであったことは既に申し上げました。自分が事件を起こしてしまうのは必然だったのでしょうか?

自分の人生の転落の始まりは大学受験失敗の時でした。高校在学中からほとんど勉強せず、浪人中も同様の生活を送り、受験した大学の全てに不合格となりました。周囲から見れば単なる怠惰であり、完全な自業自得です。しかしそれは自分の主観とは違うのです。高1の時に父親が急死し、その直後くらいから自分はそれまで経験したことがない異常な疲労感と眠気、記憶力の低下に襲われ、幻覚や悪夢を見るようになりました。明らかに自分は病気になっていました。

「自分は好きで怠けたのではないんだ。努力したくてもできない状態だったんだ」と叫び出したい気持ちをいつも抱えていました。しかしそれを上手く説明できませんでした。人間は原因を把握していないと主観的評価と客観的評価の極端な乖離には耐えられません。自分は大学受験の失敗に限らず無惨なティーン時代と20代を過ごしてしまったことについて適切な自己物語が作れず、

「自分は『ヒロフミ』だからこうなったんだ」

と納得できないままに思っていました。ところがある本を読んで、その原因が分かったのです。ある本とは前述しました留置所で読んだ精神科医の著書です。その中で紹介されている「被虐うつ」の症状と、自分の高2から22歳くらいまでの異常な状態がほぼ一致したのです。自分は当時は「被虐うつ」を発症していたと確信しています。そして自分は、

「高2から病気になったのだから、大学受験の失敗は不可抗力だったのだ」

という自己物語を作って納得できたのです。この自己物語があれば自分は上智大学への異常な劣等感などは持ちませんでしたし、高卒の学歴とそれに伴う周囲の自分への低い評価も受容できました。

自分は唐突に小4の時にミニバスに勧誘されて迷った挙句に断ったエピソードを思い出しました。断ってしばらくしてから誘ってくれた同じ学年の子に会った時に、

「ヒロフミも入ればよかったのに。とても楽しいよ」

と言われました。自分はこれを、

「ヒロフミが入らなかったお陰で楽しいよ。入らないでくれてありがとう」

という意味と理解しました。自分がいじけて敢えて曲解したのではないのです。その時には本気でそう思ったのです。それが間違いで、その子は額面通りに自分がミニバスに入らなかったことを惜しんでくれていたのだと気がついたのです。

さらに裁判資料を読み直していて、自分が逮捕されるまで所属していた派遣会社の役員さんの供述調書に「今まで何回か食事に誘ったことはあるのですが、酒は飲めないと言って断られ、1度も食事に行ったことはありません」という言葉を見つけて愕然としました。自分は確かにその役員さんから「酒を飲むか」とは何回か聞かれました。自分は酒を全く飲みませんので、その旨を答えました。自分が食事に誘われるなどということは自分の常識にありませんでしたから、それが自分への食事のお誘いだとは思いもしませんでした。

そのように考え始めると、自分は今まで膨大な量の人からの好意や親切や勧誘をそれと認識できずに拒絶し、結果として自覚のないままに人生において巨大な機会損失の山を積み上げていたのではないかと思い至りました。そのような考えを巡らせていた頃に取り調べを受けていて、

「渡邊さんは自虐的な物言いが多いですね」

と刑事さんから言われました。これは自分にとって衝撃的な一言でした。留置場に戻ってから留置担当官さんや他の被収容者にそれとなく聞いてみると同じような返答でした。自分は全く以て普通に話していたのにです。

自分は逮捕されてから4ヶ月間以上、髪を伸ばしたままにしていました。うなじや耳が完全に隠れるまで髪を伸ばしたのは生まれて初めてでした。自分は母親から、

「お前が髪を耳にかかるような長さにしたら、見苦しくて汚くて見るに耐えないからすぐに切りなさい」

という意味のことを子供の頃から30歳を過ぎてからも言われ続けていたので髪を伸ばすことに強い恐怖がありました。留置場で髪を伸ばしたのは「もうどれだけ見た目が汚くなっても構うものか」という自暴自棄によるものです。すると留置担当官さんから、

「髪が長くなって随分と見た目が優しい感じになりましたね。外でも基本はその髪型だったんでしょ」

と言われました。自分はそれまで信じていた世界観が全て崩壊したような気持ちになりました。

自分は誰からも嫌われていると思っていました。

自分は何かを好きになったり、誰かを愛する資格はないと思っていました。

自分は努力しても可能性はないと思っていました。

自分は異常に汚い容姿だと思っていました。

どうもそれらが間違った思い込みに過ぎなかったと理解した瞬間に、今まで自分の感情を支配していた対人恐怖と対人社会恐怖が雲散霧消してしまいました。

これらは自分の認知の狂いにより生じた事態でした。認知とは既に申し上げました通り物の見方や感じ方です。つまり心のセンサーです。このセンサーが客観的な数値から異常にネガティブな方向にずれており、それにずっと気がつかないまま自分は生きて来てしまったのです。例えるならば車は東京駅前を走っているのにカーナビは大阪駅前という位置情報を示していて、それを信じて運転していたようなものです。これでは車はとんでもない場所に行ってしまいます。あるいは色相と明度と彩度が反転する色眼鏡をかけて、そのことに気がつかずに絵を描いていたようなものです。これで色塗りが上手く行くはずがないです。

この認知の狂いがいつ起こったのか?結論はすぐに出ました。いじめられた小1の時からでした。細かく特定すると自分が「ヒロフミ」であると思い始めた時からでした。この認知の狂いは小学校の6年間でどんどん悪化しました。

自分の認知の狂いは留置場でリセットされて原点に戻りました。すると今までの自分の人生はまさに「生ける屍」の如きであったと思えて来ました。「ヒロフミ」であることをやっとやめられて渡邊博史としての人生が再スタートしました。

こうした心性の回復を経て自分はどうすれば事件を起こさずに済んだのかについて自分なりの結論を得ました。それはしかるべき立場の人から、

「あなたは普通の人が一生に使う力の数倍の力を使って頑張って生きて来ました。あなたは決して怠け者ではありません」

とでも言ってもらえばよかったのです。そうすれば自己物語が一気に書き換えられました。それにより自分が負け犬の地位にいることも受容できました。自分の人生の主観的苦難と周囲の客観的評価の乖離の原因も把握できて、抱えていた茫漠たる怨念を消滅させて楽になれたでしょうし、現況からこれからを少しでもよくするように生きようとも思えたでしょう。そしてどうしても人生が行き詰まったならば静かに自ら命を絶ったことでしょう。

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