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デモクラシー

地元の街づくりにかかわり、市民の側から行政に対して回路を拓くことを試みながら、これは民主主義をつくっているのだと感じることがある。それは密室空間での密かなやりとりを孕んでいて、とても民主的などとは言えないものでもある。自分の手のひらを開けて見せ、会話のできる相手だと信用させ、それを地道に繰り返す。さまざまな情報が集まりはじめ、関わるさまざまな利害者の力関係が読み解け、なにが障壁をつくっているのか、街の道理が見え始める。信用できる相手、自分を信用している相手が見え始める。本当の腹の内までは知れなくても、お為ごかしなものも含めて、その信用の相互キャプチャーを手がかりにする。ひととひとの関わりの中にそれを積み上げる。これ自体は、まったく民主的などではなく、水面下の調停や場合によっては談合も含むような話だ。だが、それなしには、どうやら民主主義がつくられそうにない。本来なら、市民が行政に対して正規の手続きをとれば、ある程度の民主主義の見通しがひらけ、それによって社会が動くといいんだけど。それができるためには行政が「前例」を体験している必要がある、というこの国の「前例主義」と言われる消極性が行政を縛っている。だから、水面下のひととひとの関わりでそこに回路を拓く。水面下で動き、それによって前例をつくる。それは、次に回路を通る者が、手続きだけで、そっけない事務的とも言える手続きだけで、民主主義を履行できるように。そのためのものだ。もし、利己的にふるまうなら、自分だけが回路を持ち、自分に有利な利益を誘導するためだけにその回路は使われることになる。そうではなく、次に続くひとたちのために、民主主義の回路を拓くのだ。民主的とは言えないものを許容しながら。だから常に自己を監視しなげればならない。その許容の範囲が、度を越すかどうかは、自分の中に公正なリテラシーを強く持つしかないのだから。本当に、そのやり方で民主主義がつくられるのか、分からない。ただ、それ以外に方法が見つけられなくそうしている。いましばらくは。

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