見出し画像

良いところ悪いところ

ものごとの良い面と悪い面は、あちらの端とこちらの端にあって、ひとびとはそれをあっちからこっちへ走り、またこっちからあっちへ走りして、その振れ幅の大きさを強いられ続け、やがて疲弊してしまう。そして潰されてしまう。
そう感じたのはあの震災のあとのことだ。その振幅に耐えることは、たやすくない。震災のあと、さまざまな出来事や情報に一喜一憂させられ、やがて気持ちが潰れされていった。その振幅に耐えるために、こころを閉ざし、論理を捨てたひとをたくさん見た。
やがて違う感覚を持つようになった。ものごとの良い面と悪い面は、実は表裏一体の同じ場所にある、同じものだ。それが時々くるりとこちらに向ける顔を変える。同じものの見え方次第で、わたしたちは受け取り方を変え一喜一憂している。一喜一憂の裏には、同じひとつのものがあること知る。そのように捉えて、その周期に慣れていくしかないのではないか、と考えるようになった。季節が巡ることに身体を慣らすように。あわてず走らず。
このことを自分なりに言語化してみたのは、もう2年ほどまえのことで、その作業を通して自分は少し救われた思いだった。

「差別をするひとにもいいところある」は、これと同じようにひとつの人間性の現れ方でしかないと思っている。そのくるりと変わる現れ方は、そのひと固有の特異性なのだ。そのひとのいいところには、きっと差別を支える悪意や、それをしておきながら批判を受け付けない不遜な悪質さと同質のものが含まれている。いいところの裏には、それらが潜んでいる。

差別者に限らず、よく言われるひとりのひとの持つ長所と短所というのも、これと同じように考えている。ひとりのひとの持つ方向性・ベクトルのようなものがあって、それがあるときには良いものとして、あるときには悪いものとして現れる。固有の特異性が、ときによって姿を変えて現れる。例えば「ものごとを推し進める強さ」が「不遜な強情さ」に姿を変えるように。「人懐っこさ」が「厚かましさ」に姿を変えるように。人間性というのは、そういうあるひとつのベクトルの現れなのだろう。
だから、あるひとの長所が「おとしよりに優しいところ」で、短所が「ウンコの後に手を洗わないこと」だったりするようなのは、ほんとのところ長所・短所でさえないのだと思う。他者とつきあうとき、ベクトルの強さに翻弄されるのではなくて、それがどのような姿の変え方をするのかに注意していきたいと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?