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貧乏はお金持ち──「雇われない生き方」で格差社会を逆転する

貧乏はお金持ち──「雇われない生き方」で格差社会を逆転する

本書は2009年に出版された。およそ10年ほど前で、本書の文庫版の発売日が2011年でその2年間に変わった内容には注釈が入っている。2009年時点で起こっていた現実の事件として、エンロン・ショックリーマン・ショックの事例からの反省や教訓、日本の話題として新銀行東京の沿革も出てくる。

私が本書を購入したのは2020年6月で、何度か読もうとして途中で挫折した経緯がある。当時、私は起業したばかりでもあったのでより実践的なハウツーを求めていた。本書においてもそういったテクニックはいくつか紹介されてはいるけれど、制度ハックに主眼を置いているわけではない。既得権益を壊したり社会を変えるためには制度ハックして制度そのものが維持できなくすることを肯定してはいるが。ともかくハウツー本を求めている読者向けではない。

自分でマイクロ法人を1年ほど経営してから本書を読み返してみると、すらすらと読み進められたわけではないが、以前の、途中で読み疲れて挫折してしまうことはなく、むしろ関心や実感をもって楽しみながら最後まで一気に読み終えることができた。

いくつか書評を眺めていると、マイクロ法人という言葉を広めるきっかけの1つにもなった著作らしい。法人は「ひと」なのか「もの」なのか、個人 (自然人) がマイクロ法人という人格を分裂させると何が起きるのか、法人についてもっと深く理解したい人に向いている。

あれこれ考えるよりやってみる

本題の前に軽い話題から。

百聞不如一見  孔子
百聞は一見に如かず (,百見は一考に如かず,百考は一行に如かず)
https://psych.or.jp/wp-content/uploads/2017/10/57-30.pdf

「百聞は一見に如かず」という言葉には続きがあると知った。とはいえ、引用元の記事によれば、それ以降の言葉は後世の創作になるらしい。創作かどうかはともかく、私にとっては納得感のある言葉だったので紹介する。

ものごとを理解するとき、聞くよりは見た方が速い、見るより考えた方がよい、考えるよりやってみようといったところだろうか。様々な応用・解釈ができるうまい言葉だと思う。なにかを学ぶ順序とみなしても通用するかもしれない。

人がなにかを学ぶ際、大きくわけて2つのアプローチがあると私は考えている。具象から取り組むか、抽象から取り組むか。この取り組み方は対象の難易度やその人の好み・性格によっても異なる。どちらの方が優れているという話しではない。どちらから始めても、深く学ぶ上で具象も抽象もどちらも重要である。最終的には両方を学ぶことに変わりはないが、先にどちらから学び始めるかという違いがある。

私の場合、具象から学ぶ方が好みなので大抵そうしている。実際にやってみて起きたことから経験を積み重ね、自分なりの解釈で理解していく。もちろん他者の助言や文献も受け入れて参考にはする。しかし、最終的には自身の感性で判断する。逆に言えば、自分で経験していないこと、他人からの伝聞を重視しない傾向がある。そのため、やってみて得た自身の体験と、書籍などで説明された他者の表現が合致しようとしまいと学びを深めるための要素でしかない。

メリットは、孔子の言葉からもわかるように効率がよい。
デメリットは、準備不足でやるから失敗がつきまとう。

本書のまえがきから引用する。

「会社」は、資本主義経済の中核として私たちの人生に大きな影響を与えている。だが不思議なことに、それがいったいなんなのかはじつはよくわかっていない。だからこそ「会社は誰のものか」とか、「会社の社会的責任とはなにか」が延々と議論され、それでも結論が出ない。
だがひとつだけたしかなのは、私たちがこの奇妙な生きもの(なんといっても会社はひとなのだ)とつきあっていかなくてはならない、ということだ。そして、会社を理解するもっとも効果的な方法は、自分で会社をつくってみることだ。

実際にマイクロ法人を経営してみた後で本書を読み返して関心をもてたのは私の学びの好みにも依る。

会社と企業の違い

資本主義社会で生きていくということは、所有している資本(人的資本や金融資本)を市場に投資して利益を得る(資本を増殖させる)ことだ。この経済活動を「企業 Enterprise」という。
(中略)
日本語だとこのあたりの区別が曖昧なのだが、企業活動のための効率的な仕組みとして考え出されたのが「会社 Company」で、個人がばらばらに働くより大規模かつ高速にお金を増やす(資本を増殖させる)ことができる。

これまで私は会社と企業を同じ意味で使ってきたことから、この言葉の違いを厳密に説明しているところに興味をもった。会社は法律上の概念であり、法律上の人格 (法人格) が与えられる。企業は営利を目的とした経済活動を指し、会社を含むもっと広い意味をもつ。

サラリーマンとそれ以外の企業家にはひとつ決定的なちがいがある。それは、サラリーマンが企業活動(お金を稼ぐ経済活動)の主要部分を会社に委託(アウトソース)してしまっていることだ。これは具体的には、会計・税務・ファイナンスである。

本書の3章、4章、5章がサラリーマンをしているとあまり意識しない、会計、税務、ファイナンスについて、個人と法人の違いを説明している。私もサラリーマンをやっていたときは、これらの煩わしいことに意識を割くことなく、自分のやりたいこと、本書の言葉で言うと、企業活動に邁進することや人的資本を高めることに集中したいと考えていた。

もちろんサラリーマンでもそういったことに集中できている状態であればなんら問題はないと思う。しかし、どうやら年齢を経て思うことは、会社はその状態を望む人すべてに向けて提供できるわけではないように感じるようになった。

多くの社員がいるから仕方ないことだろうが、会社には多くの制約がある。その与えられた制約の中で企業活動をすることと、自分が会社になることで起こる別の制約の中で企業活動をすることの、どちらがその人にとってやりがいを感じるのか、人生において幸福度をあげることなのかの選択が求められる。

法人と個人の人格

新たな選択肢をつくる効果的な方法のひとつが、法的な人格を獲得することである。経済的なストレスを法人に負わせてしまえば、それを盾に個人の人格を守ることができる。

本書では、米国でフリーエージェントからマイクロ法人を設立するに至った背景として、訴訟社会の米国では訴訟に負けたときの賠償責任があるという。仮に賠償責任を負ったときでも、個人が無限責任を負うのではなく、法人の有限責任に転嫁できることをあげている。もちろん、悪意や重過失など、すべてにおいて有限責任が認められるわけではない。

引用した文章では経済的なストレスとあるが、その節では精神的なストレスについても触れている。経営者に限らず、サラリーマンであろうと精神的に病んでしまう人はいる。私自身もサラリーマンで精神的に辛かった時期をなんどか経験してきたが、最後の最後は自分1人で抱え込まないということが重要ではないかと考えている。サラリーマンであれば、この業務を私に担当させた上司や会社が悪いと考えるのだ。

マイクロ法人であれば、法人という人格を得ることでその辛さを法人に負わせるというプラクティスが紹介されている。考え方次第ではあると思うが、個人が過度なストレスを抱えて高い生産性や優れた品質を提供することはできないだろう。結果的に企業活動が円滑にできるのであれば、過度なストレスを抱えないことは重要である。

マイクロ法人をつくれば、ひとはビンボーになる。そしてそれが、お金持ちへの第一歩だ。そのうえ〝雇われない生き方〟を選択すれば、クビになることもない。

私が起業するきっかけの1つがその前に勤めていた会社で早期退職制度が設けられたことだった。応募資格は50歳以上となっていて、なんとなく自分が50歳になったときのことを想像させられた。自分が50歳になったとき、リストラ対象となるかどうかはわからない。しかし、勤めている会社の経営状況やそのときの人事評価により、自分が退職勧奨されることは大きなショックを受けることは容易に推測できた。

人は現実に起きることそのものよりも、不確実な未来の方がずっと不安に感じる。マイクロ法人を設立することは、サラリーマンがリストラされるかもしれないという不安を払拭できる。

日本を含むほとんどの国では、同じ「ひと」に対する課税であるにもかかわらず、法人税と(個人)所得税では税率や控除の基準がまったくちがう。給与の調整によって、法人でも個人でも税コストを最少化するような設計が可能になるのだ(詳細は第4章参照)。

2章では法人とはなにか?といったテーマで過去の判例なども踏まえて考察される。最初に読んでいたときは法人の「ひと」としての権利や性質をなぜ考察する必要があるのか理解できなかった。

個人が無担保でファイナンス(資金調達)しようとすれば、消費者金融で高利のカネを借りるしかない。ところがマイクロ法人は中小企業に対するさまざまな優遇制度の対象になるので、一〇〇〇万円程度なら無担保・無利息にちかい条件で資金を調達できる。この資金を借り替えていけば、「ただでお金をもらう」のと同じ話になる(詳細は第5章参照)。

その理由が4章の税務や5章のファイナンスで明らかになってくる。国の制度として個人と法人で「ひと」の扱いが全く異なるからである。個人なら認められないことが法人だと認められることがある。本書におけるテクニック的なところは、そういった法人だと認められる制度上のメリットを強調して説明している。一方でそれはわかりやすさのために用いているだけで、本当にそういった制度ハックを推奨しているわけではないであろうと私は考える。

そうでなければ、個人と法人の「ひと」について一つの章の分量を割いて考察する熱量にはならないと考えるからだ。

法人について考えていくと常に、「ひと」か「もの」かという根本的な対立が顔を覗かせる。法人を使った節税と呼ばれているものも、すべてこの一点に根拠を置いている。

ファイナンスと信用

ファイナンスにおいてもっとも大事なのは、いったん借りたお金は約束どおりきちんと返すことだ。これが信用となって、次はさらに大きな資金を借りられるようになる。それに対していちども借金をしていないひとは、返済履歴がないから、約束を守ってくれるかどうかわからない。こういうひとが困ったときにお金を借りにいくのは、きわめて不利である。
皮肉なことに、借金を悪と考える真面目なひとほど、困ったときに誰からも手を差しのべてもらえないのだ。

私はまだ融資を受けたことがない。困った状況が起きない限り、融資を受けるつもりもなかった。しかし、本書を読んで (必要なくても) 試しに1度は融資を受けてみようという気持ちになった。これまで日本政策金融公庫のサイトをみたこともなかった。

中小企業というだけで、低金利の融資を本当に受けられるのかということを実際にやってみて学ぶ機会と考えてもいいかもしれない。

人的資本の最大化のために

本書では人的資本を要約して「稼ぐちから」と説明していた。

当たり前の話だが、人格を分裂しただけでは収入は増えない。法人化は、収入からより多くの利益を取り出すための技術であり、収入自体はあくまでも自らの知恵と労働で市場から獲得してこなければならないのだ。

あとがきにさらっと書いてあることだけど、この一節があってよかったと私は思う。当然ではあるが、個人がマイクロ法人になっただけで収入は増えない。本書はサラリーマンでも個人のどちらでも稼げることを大前提として書かれている。そのため、おそらく意図的に、サラリーマンでずっと雇用される一定の保証とマイクロ法人として独立したものの仕事がなくなってしまう可能性については言及していない。

その是非はともかく、どちらの立場であっても稼ぐちからがないとリストラされることと倒産してしまうことは同じだと考えられる。サラリーマンだと弱くなりがちな知識やスキルとして会計・税務・ファイナンスを本書では説明している。仮に本業の知識やスキルが同じであれば生存競争でどちらが有利になるかは自明である。

自由はなにをしてもいいということではなく、ひとはみな選択の結果に対して責任を負わなくてはならない。自由と責任は一対の概念だから、原理的に、責任のないところに自由はない。

本書では自由の価値を称える近代社会がある一方、自由になりたくない人たちも一定数いることについて言及している。大事なことを自分で選択しない、判断しない人は自由になれないと言い換えられるかもしれない。

人的資本を最大化するためにサラリーマンが有利であればそれでいいし、マイクロ法人が有利であればそれでもいいと私は考える。おそらく会社、業種、年齢、ライフステージ、運によっても有利・不利は変わる。

大事ななことは人的資本を最大化するための戦略を考え、自分で選択して、自分で責任を負う覚悟をもつことではないかとあとがきを読み進めながら感じていた。


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