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見ながら見られる:浅田彰,他「科学的方法とは何か」

浅田彰、他の「科学的方法とは何か」、最近、何度か読み返して改めて良い本だと思った。1986年の出版なので、ちょうど大学生になったばかりのころの本だ。

浅田彰といえば、「構造と力」が1983年に出版され、一世を風靡した。1985年に いわゆる「GEB」、 「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の日本語訳が出版され、大変なブームとなった。

私の友人たちは、こぞってこれらの本を読んで、構造主義やポスト構造主義、論理実証主義、実存主義などの議論に、花をさかせた。私は、というとそういうムーブメントを知りつつ、斜めに見て、真剣に向き合わなかった。

また、大学を卒業するころ、平成のはじめ、私の父からは「いやしくも高等教育を受けたものならばカントの純粋理性批判くらいは読んでおけ。」と諭された。しかし、私はさぼって、あれから30年もたった令和元年になって、読もうと決心したくらいである。今、ようやく上巻の300ページまで来たところだ。中巻、下巻は来年、GEBも来年の予定だ。

あのときがあるから、今がある..とはいえ、いまさらながら大変に悔やまれる。

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この本は、第一部の「報告」と第二部の「討論」に分かれている。「報告」では、哲学の浅田彰、分子生命学の長野敬、行動学の黒田末寿、経済学の佐和隆光、数学の山口昌哉がそれぞれ論文を寄せている。「討論」では、浅田彰がファシリテータとなって、各論文のそれぞれの軸から、著者全員で討論がされる。

浅田彰の論文がすばらしく、これだけでも読む価値があろうもの、私はとくに山口昌哉の論文とこれに関する討論が興味深かった。

最近、私は、現在の雰囲気として伊藤穣一氏が指摘するところの「テクノロジー万能主義と経済性第一主義の問題」と「生きることの意味」に関して考えるにつけ、デカルトの「見るもの」「見られるもの」の分離に始まる科学的思考について、あれこれ考えていた。

この本を読んで、ふと、「見ながら見られる」というありようがあるのだ、と改めて思い、フラクタル幾何学、自己相似性の概念の重要さを認識しなおした。実は、これは、ライプニッツが18世紀に、そして、C.S.パースが19世紀の終わりに指摘したことなのだ。

まだまだ、学ばなければならないことは多い。「技術者は一生勉強」、バブル景気のおかげで、らくーにパナソニックに入社した私に、配属先の中島部長(当時)に諭された言葉である。少々、ノスタルジックになってしまった。

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この本、まだ読んだことのない方は、是非、手にとってほしい。

Amazonのマーケットプレースで1円である。なんとまぁ、ものの価値とは、わからないものだ。ものや思想の価値が市場価値に単純には換算できない良い例である。

Facebookに、今年5月2日にアップした記事を少し加筆しています。


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