エルンスト・マッハ「時間と空間」
大学のとき以来だから、もう30年ちょいになる。去年の11月から読み返していたのだが、ようやく読了した。本文が165ページ、訳者による読み応えのある解説が46ページ、それほど長いわけではないのだが、他の本と並行で、メモをとりながらじっくりと読んだので少し時間がかかった。
「大学のときに読んだ」といっても、ほとんど内容は覚えていないし、理解できたわけではない。マッハの本を読んだというだけで少し高級な人間になったような気がしただけで、本棚に並んでいただけである。あらためて読もうと思ったのは、鏡像のことをあれこれ考えていたときに、ふと手にとってみたら、ずばり私が考えていたことが書いてあるのを見つけたからである。そのことは、以前に書いた。
マッハといえば音速を超える速度の単位「マッハ数」として名前が残っている。また、マッハは、19世紀のデカルト/ユークリッド座標系による絶対空間と絶対時間・因果関係を基礎とした当時の力学的世界観に異を唱えた。その世界観がアインシュタインに深い影響を与え、20世紀の相対性理論の確立に寄与した。そのような物理学者として、マッハの名を一度は耳にしたことがあるのではないかと思う。訳者解説によると、マッハの功績は物理学にとどまらず、さらには、哲学、科学史、生理学、心理学、音楽理論の多岐にわたり、それぞれに第一級の仕事を残しているという。
当時、「因果関係を基礎とした力学的世界観ですべてを説明し理解できるはずだ」という信念のもとに科学は目覚ましい発展をとげた。それと同時に様々な分野で、重大なほころびも見え始めていた。物理学で言えば、黒体輻射理論や、マイケルソン・モーリーの実験などがあげられる。おそらくマッハは、単に一分野の個別の課題に取り組んだだけではなく、その背後にある「科学とは何か」「理性の働きとその限界」ということに関して、当時の科学技術の目覚ましい発展に惑わされずに、一貫して考えたのだと思う。
さて、マッハが否定した「力学的自然観」とはいったいどんな内容だろうか。
当時は、「因果必然的な力学法則に統べられた決定論的世界像の完成」を、多くの研究者たちは追及していた。一つの必然的真理から、すべてが<原因ー結果>の連鎖のもとで説明され、予測されるものである、と信じられていたのだ。
力学的自然観に関して、本書の訳者による解説にうまく説明してあるので、引用してみよう。
このような世界において、すべての事象の運命は、最初にあたえられた(最初があるとするならば)座標と運動量からすべてが決まっていて、自由意志の余地がないように思われるかもしれない。ここで、すべてが因果必然で決まる物理世界とは別に、精神の世界があるとし、精神の世界では意志は無限に自由であると考えるのが、二元論である。
<原因ー結果>の連鎖を無限にさかのぼっていき、ある特異点にたどり着いたとしよう。それに与えられた座標と運動量によって、その後の展開が必然で決まってしいまう。では、その特異点において、ある物質が座標と運動量で与えられたとするならば、その座標と運動量に、もう一つ前の原因があるのか。しかし、それ以前に原因があるのだとしたら、その特異点は<原因ー結果>の系列の最初ではないわけだから、さらにさかのぼらなければならあい。だから、その特異点をその座標と運動量で与えたのは、物質世界にあるなにかの原因ではありえない。それは精神世界のだれかの自由意志であると考えればよいのだ。
そして、精神世界の自由意志が物理世界から独立にあり、物理世界に影響を及ぼすことができるとする。物理世界で問題があって、それを解決しようとしたとき、あるいは物理世界での人間の能力を超えた何かを実現しようと思ったとき、その人間の意志によって物理世界を変えることができると考えることができる。
つまり、世界に意志によって変化を与えると、そこを起点とした<原因ー結果>の連鎖によって、新たに、力学モデルによる必然的な結果を得ることができる。力学モデルが正確であって結果を予測できるなら、自由意志によって世界を望むままに変えることができる、というわけだ。世界の終わりがたとえ来ることがあろうとも、それが予測と説明・制御が可能なものであるならば、今はわからなくても、いずれは乗り超えることもできるはずだ。
そして力学モデルは、人間が理解できるものであり想像の範囲内であり、シンプルで美しいものであるはず、と考えられていた。
今でも、このような二元論で考えている人も多いのではないだろうか。
マッハが異議を唱えたのは、このような、17世紀のデカルトに始まり18世紀初頭のニュートン・ライプニッツの二元論の世界のとらえかたであり、18世紀後半のカントの世界のとらえかたへの転換を軸に、新たな世界の見方を展開した。マッハは次のように「VI 時間・空間に関する一考察」に書く。
と簡潔に整理したうえで、
とする。
「絶対空間があり事物がその中にある、そして、時間軸における原因ー結果の連鎖の秩序を人間が理性によって明らかにする」という科学のありかた、そして「その秩序は実在する絶対のものである」とする思想に対して、「空間や時間や因果関係は、人間が、様々な感覚器官を通じて直観する現象を経験として受け取り秩序だてて概念化する、そのような形式であって、人間の理性が明らかにしているのは、この形式そのものである」と考え「導出したと理性が考える秩序は、実在するあるものの諸現象の関係を説明する形式の秩序にすぎず、絶対ではない」とするのだ。
カントの「純粋理性批判」は、人間の認識と判断と理性について、様々な観点から論理を駆使し理性によって考察し、そのため、分厚く長く複雑で、思弁的な議論になっている。
それに対し、マッハの議論は、生理学的空間を図示し、また、法則と理論の基礎となる計測について、基準となる物の長さとの比較・合同性とともに基準となる時間との比較・合同性に拠っていることを丁寧に説明し、また、ロバチェフスキー幾何学やリーマン幾何学などの新しい空間の幾何学への言及も添えられ、そのために、具体的でわかりやすいものとなっている。
これらの議論を通じて私が思うことは、物理・数学をはじめとする科学技術は、空虚な議論の中ではなく、世界と私たちの関わり合いの中で初めて意味を持つ、ということだ。
とかく、現代の私たちは、強力なコンピュータの腕力と膨大なデジタルデータの蓄積によって、個人のレベルでも万能感を持ちやすい。科学技術万能主義が行き過ぎることもあると思える。人間の理性について、その限界について私たちはともすれば忘れがちであり、理性の力で万物が理解でき、万物を制御できると考えがちである。しかし、理性には限界があり、決して私たちが世界そのものをとらえることはできないのである。
カントやマッハの議論は古いものではなく、今こそ見直してみる価値があるのではないか、と考えている。
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