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意味を求めて:Christian Madsbjerg "Sensemaking"

これまでも何度か、以前に読んでFacebookに投稿した感想文を、note に再掲したことがある。その場合でも、そのままコピペするわけではなく、一度は、ざっとでも読み返して、適宜、加筆訂正している。大きく書き換えたところもある。本の紹介、という点では、本の内容が変化しているわけはないのに、なぜだろうか。

確かに変化の激しい時代ではあるが、この1-2年で、私たちをとりまく環境や構造がどれほど変わっているかというと、それほどでもない。本の内容が急激に古くなったというわけでもない。

もちろん、私が変わっているのである。

だから私にとって、この作業はまったく意味がないことではなく、自分の考えを整理しなおして捉え直し、ときには、ますますわからなくなったにしても、それは非常に意味があるのだ。

さて、この Sensemaking は去年の2月に読んだもので、すぐに読後感をFacebookに投稿したのだが、良い本だと思ったので、先週に note に再掲しようとして、読み返してみた。すると、ちょっと自分の中でモヤモヤとしたところがあって、改めて整理しようとしなおしたのだが、結局、うまくいかない。

どこが、モヤモヤしたかというと、著者が、今の社会のどこに問題点を感じて、どこを課題視し、この Sensemaking という考えを新たに提唱したのか、改めて考えてみると、よくわからなくなったのだ。

問題を細分化し、分析的で論理に基づく思考と統計をもとにモデルを作り、それを拡張したアルゴリズムによる大量のデータの高速処理を実施し検証しながら問題の解決策を探っていく。確かに、それだけでは現代の私たちが直面している複雑な問題を解決できないだろう。

特に、現代のように、周囲の環境の変化が速く、未来の予測が難しい時代では、過去に、いったんは有効と思われた解決策であっても、実行しているうちに有効性が失われたりする。予測をしにくい、あるいは不可能な世の中になったともいえる。ということは、予測不能な変化に応じて、実行している間でも、最終的に何を目指しているのか、目的を関係者全員で共有して、最終的に意味がある解決策となるように動的に対応していく必要があるのだ。

また、関係者の範囲も広くなってきた。単に、顧客の規模が大きくなってきたということではない。複数の利害が対立するコミュニティも含まれるし、国境をまたがっていることも普通である。例えば、地球温暖化、あるいはSDGsといったことを考えると、地球全体が関係者という問題も普通になってきた。一つの製品やサービスが与える影響が、ときには国境を越え、文化を超えてしまうこともままあるわけだ。

だから、次の点が重要となる。

1. 問題を、ある視点の切り口から見た一面的かつ分析的な見方でなく、歴史と文化を踏まえて様々な角度から問題をとらまえ解決策を探る
2. 単に事実を集めた数字だけの抽象的なデータだけではなく、その文化的な背景や歴史的な文脈も考慮された生きたデータを集める
3. 問題を静的な対象として世界から分離してみるのではなく、生きているダイナミックな問題として世界の中でのありのままを見る
4. 現状の延長ではなく、創造的な解決策を求める
5. 目標の達成ではなく、目的を大事に、関係者にとって意味のある解決策を求める

ー なるほど。以上の点は、私は同意できるところだ。

しかし、このような問題意識、アプローチは、これまででも論じられてきたところではあるし、だからこそ、General System Theory や、川喜田二郎や梅棹忠雄などの文化人類学・フィールドワークの方法論、システムズシンキングやシナリオシンキング、など、これまででも実践的な方法論や考え方が数々提唱されてきた。

では、この本での Sensemaking とはそれらとは違った方法論や考え方なのだろうか。新しい時代の新しい問題に対応した、ということなのだろうか。現代の課題を認識しなおしたときに、Sensemaking という何かが新に必要だと思われたのだろうか。その点は私にはどうしても得心がいかなかった。

それら従来の手法に、うまく A.I. など最新の情報処理技術を道具として取り入れれて、上記のような点を見失わないように運用することで、もっとうまく行くのではないか、と思うのだ。

内容が浅いのではなく、私の読み方が浅いだけだとは思う。私の歴史認識、あるいは、現代の問題意識や状況認識が甘いのかもしれない。あるいは、A.I.とかアルゴリズム、に対する世間の見方に対する警鐘ということだけなのだろうか。

ともあれ、Facebookに去年の2月に投稿した文章に加筆訂正を加えて、上記と重複もあるが、以下、再掲する。

著者は "Sensemaking"を、Humanityに裏付けられた実践的な知を応用した方法であり、STEM (Science, Technology, Engineering and Math)をベースにした アルゴリズムによる考え方とは、完全に反対の方法である、としている。

Sensemakingにおいては、Humanityがまず第一である。また、推論の仕方として、演繹法(Deduction)、帰納法(Induction)、仮説的推論(abduction)の3通りあるが、abductionが重要であるとしている。そして、現象学や民俗誌学の考え方や方法論を応用できる。つまり、抽象的なデータ (thin data) に頼らずに、地域ごとの文化や歴史といった社会の文脈のなかで人間の行動を観察 (thick data) しなければならない。

これらの考え方をベースに著者は、Sensemakingの拠ってたつ5つの原理を提唱している。

1. Culture - not individual
2. Thick data - not just thin data
3. The Savannah - not at the zoo
4. Creativity - not manufacturing
5. The north star - not the GPS.

さて、問題解決とはどういうプロセスなのだろうか。

私達が問題を解決しようと試みるときには、まず、現状を分析して、あるべき姿を設定し、そのギャップを課題と考え、課題を解決するためにさまざまな検討を実施し、解決策を見出して実行する。

通常、問題は部分部分に分割し、対象を客観的に分析して真因を見出そうと試みる。この分析結果をもとにして、なぜなぜ分析や、批判的思考、論理思考、などが、これまでの比較的単純な問題には効力を発揮してきた。

また、最近では、数値化したビッグデータをAIなどアルゴリズムを用いて、リアルタイムなパラメータを含めて処理したり、強力なコンピュータシミュレーションを使って、現実に近い複雑なモデルを用いて、その挙動を検討することができ、原因と結果の因果関係がわからなくても、直接、課題と解決策を求めることができるようにもなってきた。

私達はいろいろな強力なツールを持っていて、さまざまな問題に対処することができ、いろいろな視点での解決策を見出すことができるようになってきた。だから、私達は、以前より、正しく問題を設定でき、正しく解決策を、すばやく見出すことができるようになってきたと考える。

しかし、それにも関わらず、多くの問題解決において、課題は解決したように見えるが、自分たちにとっては意味がない解決策だった、と思えたり、形を変えて問題が表れたり、ひどい場合には、なお、問題がそのまま残っている場合もままあるのである。

問題は、分析したり解決したりする単なる客観的対象ではない。問題は、その問題によって迷惑をこうむる人、あるいは組織が、主体として問題を経験し苦しんでいることである。したがって、どこに問題の本質があるか、ということにおいては、社会的な文脈、歴史であるとか文化であるとか、当事者に密接に関わりあっているのである。つまり、問題は、当事者にとって、固有の意味を持つのだ。

ということは、問題の解決策も、当然の帰結として、その人や組織にとって意味があるものでなければならない。

したがって、問題を分割するのでなく、大きな文脈の中で見る必要がある。問題が発生している場所に行き、直接、人にあたり、組織の中に飛び込んで観察する。新しいアイディアではない。現場、現物、文化人類学、民族誌学、フィールドワーク、いくつかのなじみ深いキーワードが思い出され、私は、Sensemaking を読んで、川喜田二郎や梅棹忠夫を思い出した。

川喜田二郎著の「パーティー学」をいくらか読み返してみた。昭和39年に初版が発行されたこの本の内容は共通な部分が多いと思われ、考察はずっと深みがあるように感じたが、主張の比較や位置づけなどは、今後じっくりと考えたいと思う。Sensemakingは、現代の社会とテクノロジーの文脈のなかで提示されていて、とくに、アメリカやヨーロッパの文化と切り離して考えることはできないから、簡単には言えないのである。

さて、著者はSensemakingはアルゴリズム的考え方とはまったく逆であるとしているが、私は手法、方法論として、いろいろな手段はそれぞれ有用ではあると思い、どれが使えるとかどれが使えないとか、あの方法はもう古いとか、今のトレンドはこの方法、ということではないと考える。ただ、問題を客観的な対象として分析して演繹的、あるいは機能的に考えるだけではなく、問題を、その人や組織、そして社会の文脈も切り離さずに観察し、仮説的推論を用いて考えて、当事者にとって意味のある解決策を見出すことは、大事であると、私も思う。

この本の主題からはずれてはいるが、いくつか気になったことを、以下、触れておく。

著者は、この本のなかで、ハイデッガーやフッサールの現象学や実存主義について触れ、たびたびその考え方を援用している。その是非は私にはよくわからないが、久しぶりにデカルトの「方法序説」を引っ張り出して読んでみた。また、ハイデッガーの哲学史における位置づけやその思想について、木田元の「反哲学入門」も読み返してみている。このあたりについては、もっと考えを深める必要がある。カントの純粋理性批判や、ヘーゲルの弁証法、ニーチェなどの本を読まずして語ることはできないようにも思う。

そして、道半ばの、Russelの "History of Western Philosophy"に三度目の正直、今年こそは読了したい。

この本を読み始めたとき、デザイン思考や人間中心主義と、とくに問題意識において共通の部分が多いな、と思ったのだが、この中でかなりのページを割いて、IDEOなどの、いわゆる「デザイン思考」をこき下ろしている。なかなか面白いとは思ったが、ただ、著者は「デザイン思考」を少し誤解しているのではないかと思ったのだが、この点も力量不足で、私にはうまくとらえることができなかった。

また、たくさんの事例などを引用しているが、正直、それは退屈だった。読み飛ばしてもさしつかえない、と感じた。ちょっと難しい言い回しや単語も散見され、ちょっとひっかかるところもあるが、考え方そのものはそれほど突飛で難解なものではないので、すっと読むことができる。

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