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アリストテレスが整理した幸福

ニコマコス倫理学(上)を読んだ。万学の祖と言われるアリストテレスが、人生における究極の目的である幸福を得るために、もっとも重要な徳とは何か、その徳をいかにして身に付けるかを論じる本。

如何なる知識も選択も、ことごとく何らかの善を欲し求めている。だとすれば、われわれがもって政治の希求する目標だとなすところの「善」すなわち、われわれの達成しうるあらゆる善のうちの最上のものは何であるだろうか。名目的には、対外の人々の答えはおおよそ一致する。すなわち一般の人々も、たしなみのある人々も、それは幸福(エウダイモニア)に他ならないというのであり、のみならず、よく生きている(エウーセーン)ということ、よくやっている(エウ・プラッテイン)ということを幸福にしている(エウダイモネイン)というのと同じ意味に解する点においても彼らは一致している。

とあるように、全ての人が幸福に向かう善を欲している。

だがひとたび、その「幸福」とは何であるかという点になると、人々の間には異論があるし、また、一般の人々の所説は智者たちのそれと趣きを異にしている。一般の人々は、すなわちあからさまな判然たる何者かを挙げる。たとえば快楽とか富とか名誉とかを。

ただ、幸福は人×状態によって定義が変わりそうだ。アリストテレスは少し差別的な表現をするのだが、低俗な人々の善は欲、たしなみのある人々の善は名誉などと言っている。

しかるに「善」は、本質の場合においても、質の場合においても、関係の場合においても語られるのであるが、「それ自身独立的にあるところのもの」すなわち実態は、その本性上関係に先だったものではなくてはならぬ。なぜなら、後者は「有るもの」のひこばえとも言うべきもの、「有るもの」の付帯性たる位置にあるものなのであるから。してみれば、かかる全てに共通なイデアはあり得ないわけである。
本質にあってはたとえば神や知性が、質にあっては諸々の卓越性(徳)が、量にあっては適度が、関係にあっては有用が、時間にあっては好機が、場所にあっては適住地がと言うふうにいずれも善とされる。

幸福に向かう善は何らかの人ものとの関係性によるので共通化はできない。

あらゆる学問は何らかの善を目指しその欠けたるところを探求するが、「善そのもの」の知識のごときはこれを等閑に付しているのであり、しかるにそれほどまでに有力な助力足るべきものをそれぞれの学芸の専門家が誰も知らず、これを探究すらしないと言う若きことは考えない事柄なのである。

全ての事柄は幸福にむかい「善」を求めるはずで、その「善」は人によるのに、学問を行う人々がその学問自体の「善」をおざなりにしていることは不意義だと。

究極的な「善」は自足的であると考えられる。最も、自足的と言っても自分だけにとって充分であると言う意味ではなく、つまり、ただ単独の生存者としての自分にとって充分であると言う意味ではないのであって、親や子や妻や、広く親しき人々とか、さらに国の全市民をも考慮に入れた上で充分であることを意味する。人間は本性上市民社会的なものにできているからである。もちろんそこには或る限界が置かれるべきである。

幸福もそのための善も主観であり、自足的であるもの。それを他社との関係も配慮しながら満たしていくことが重要だよねと言う。

かくして残るところのものは、魂(プシュケー)の「ことわりを有する部分(ト・ロコン・エコン)」の働きといった、そうした生のほかにはない。

人間の機能のオリジナリティは「魂」だと。自らことわりを有して、知性認識することが人間たらしめる部分なので、それが大事だよねと。これは昨今言われている自分のコンパスを持とうとか、ステートメントを持とうとか、意義を持とうとかそう言ったものと類似する気がする。

琴弾きの機能は琴を弾ずるにあり、優れた琴弾きのそれはよく弾ずるにある。もし以上の如くであるとするならば、[人間の昨日は或る性質の生、すなわち、魂の「ことわり」を具えた活動とか働きとかにほかならず、優れた人間の機能全て如何なる事柄もかかる固有の卓越性に基づいて遂行されるときによく達成されるのである。もしかくのごとくであるとするのあらば]。「人間と言うものの善」とは、人間の卓越性に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる。

固有の卓越性に即した魂の活動が、「人間というものの善」であり、個々人の幸福であるという。自分の幸福を考え、善を考え、そこに対しての魂を持ち、それを磨いて幸福に向かう。それが人生と読めた。

われわれはまた、一様にあらゆることからにおいてそれの因を求むべきでなく、ある事柄においては、それの「であること」(ホテイ)が麗しく示されることで充分でありー根源的な端初なのである。ただ、根源的な端初(アルケー)と言っても、或る場合のそれは帰納によって認識されるものなのであるし、或る場合のそれは感覚によって、また或る場合のそれは、一定の習慣づけによって到達されるといったふうである。われわれは、だからそれぞれの端初をその場合におけるそれの本性に応じて獲得することを努むべきであり、またこれらが麗しき仕方で規定されることに力を致すべきである。

ここまでの話を聞くと、その幸福に向かうための根源を求めたくなるが、それは演繹的に求められるものではなく、帰納的に導かれるもの。ここら辺が難しいし楽しいところだろう。根源を求めて日々頑張ることによって、いつか何らかの形でそれが見える時が来ると。

「端初は全体の半ば」以上であり、所求のことからはそれによって多分に光を与えるものだと考える。

というように、初まりで半分以上が終わるという。これは事業でもそうだし、人生でもそうなのだろう。

ここまででまだこの本の半分もいっていないが、ここまでだけでも充分くらい今に通づる真理なのではないか。アリストテレス恐るべし。



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