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邪馬台国はどこにあったか?【諸説あり】


■九州説 vs 畿内説

■新井白石

 「邪馬台国論争」(九州説 vs 畿内説)の勃発は、江戸時代の新井白石に始まった。彼は『魏志倭人伝』を史書として、通詞・今村英生と共に研究し、『古史通或問』に、
──邪馬臺国は、即、今の大和国なり。
と書いたが、後の『外国之事調書』では、
──邪馬臺(ヤアマタハイ) 筑後山門郡
とした。畿内説から九州説に転じたのである。
 彼が邪馬台国の位置を「大和(やまと)」「山門(やまと)」に特定したということは、彼は「邪馬台」を「やまと」と読んだと思われるが、今村英生が当時の中国の発音は「ヤアマタハイ」だと言い、『魏志倭人伝』以降の中国の史書(『隋書』『北史』)では「邪靡堆」「邪摩堆」と読まれていたので、教科書には「やまたい」とあるが、中国人にはそう聞こえただけであって、「やまと」だと思う。

■金印

 発見された金印には、3行に分けて篆書で「漢/委奴/國王」と刻されている。明治25年(1892年)、三宅米吉が「漢(かん)の委(わ。委は倭の減筆)の奴(な)の国王」と読み、教科書に採用されている。「委奴」は『魏志倭人伝』の「伊都」だとする説もあるが、三宅米吉は「委はワ行のゐ、伊はア行のい」(発音が違うので成り立たない)と否定している。
 余談になるが、邪馬台国=阿波国説では、四国東部地方は「伊国」と呼ばれていたとし、伊→委→倭と表記が変化したのであって「倭国は阿波国にあった」とするが、伊(い)と委(ゐ)が同じ発音になったのは室町時代であるので、成り立たない。
 話を元に戻すと、「倭国」とは、北九州の約30ヶ国の連合国家で、「委奴」が「倭国の奴国」にせよ、「伊都国」にせよ、奴国も、伊都国も、倭国を形成する1つの国である。そして、その連合国家「倭」の首長であった女王・卑弥呼の国である邪馬台国も、倭国の1つの国である。言い換えれば、記紀に邪馬台国が登場しないのは、記紀は大和王朝の歴史書であり、九州王朝「倭」の1つの国(邪馬台国とか、奴国とか、伊都国とか)が単独で魏へ使者を送っても、記紀に書くようなことではないからだとする。

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