見出し画像

Recoの君語り ー『光る君へ』(第35回)「中宮の涙」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)


【前半】
第一部「青春篇」

康保  3年(966年)     藤原道長、生まれる。
天禄元年(970年)?    紫式部、生まれる。
寛和  2年(986年)6月23日 「寛和の変」(花山天皇の退位と出家)
               一条天皇(7歳)即位。
寛和  2年(986年)      「庚申待ちの夜」
第二部「関白争奪篇」
永祚  2年(990年)  7月  2日 藤原兼家、死去。
正暦  4年(993年)  7月29日 源倫子の父・源雅信、死去。享年74。
長徳元年(995年)  4月10日 藤原道隆、病没。享年43。
長徳元年(995年)  5月  8日 「七日関白」藤原道兼、病没。享年35。
長徳元年(995年)  6月19日 藤原道長、右大臣に転任し藤原氏長者宣下。
長徳元年(995年)  8月下旬 朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に来航。
長徳  2年(996年) 1月28日 藤原為時、越前守に就任。
長徳  2年(996年)夏    「月夜の逢瀬」
第三部「越前篇」
長徳  2年(996年)夏     藤原為時&紫式部、越前国へ。
長徳  2年(996年) 10月   高階貴子、死没。
長徳  2年(996年) 12月16日 藤原定子、脩子内親王を出産。
長徳  3年(997年)      紫式部、帰京。
第四部「結婚生活篇?」
長徳  4年(998年)  8月27日     藤原宣孝、山城守に就任。(『権記』)
長徳  4年(998年) 晩秋(ドラマでは9/30?)紫式部、藤原宣孝と結婚。
長徳  5年(999年)  1月13日  「長保」に改元。
長保元年(999年)  2月  9日  藤原彰子、裳着の儀(『御堂関白記』)
長保元年(999年)  2月   「石山寺の夜」
長保元年(999年)  2月末日頃  『枕草子』「二月のつごもりごろに」
長保元年(999年)  11月  1日 藤原彰子、入内。
長保元年(999年)  11月  7日 藤原定子、敦康親王を出産。
               藤原彰子に女御宣旨(「本宮の儀」)。
長保元年(999年)  12月   紫式部,、藤原賢子(大貳三位)を出産。
長保  2年(1000年)  5月5日 『枕草子』「三条の宮におはしますころ」
長保  2年(1000年)12月15日 藤原定子、媄子内親王を出産。
長保  2年(1000年)12月16日 藤原定子、死没。享年25。
長保  3年(1001年)  4月25日 藤原宣孝、病没。享年不明。
長保  3年(1002年)閏12月22日 藤原詮子、死没。享年40。
【後半】
第五部「『源氏物語』篇?」
長保  4年(1002年)  6月13日 和泉式部の夫・為尊親王、病没。
長保  6年(1004年)  7月20日 「寛弘」に改元。
寛弘元年(1004年) 『源氏物語』の執筆開始。
寛弘  2年(1005年)  9月26日 安倍晴明、死没。享年85。
寛弘  2年(1005年) 11月15日 月食。内裏炎上。八咫鏡、熔解。
寛弘  2年(1005年) 12月29日  紫式部、初出仕。
寛弘  3年(1006年) 8月2日~14日  藤原道長、金峯山参詣。
寛弘  4年(1007年) 10月  2日 和泉式部の夫・敦道親王、薨去。享年27。
・・・・・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
寛弘  5年(1008年)  2月  8日 花山法皇、崩御。享年41。
寛弘  5年(1008年)  『源氏物語』、「源氏物語絵巻」として絵画化
寛弘  7年(1010年)  1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘  8年(1011年)  2月  1日 藤原為時、越後守に就任。
寛弘  8年(1011年)        藤原惟規、越後国で死没。享年38?
寛弘  8年(1011年)  6月22日 一条天皇、崩御。享年32。
寛弘  9年(1012年)12月25日 「長和」に改元。
長和  3年(1014年)  6月17日 藤原為時、任期を残して越後守を辞任。
長和  5年(1016年)  4月29日 藤原為時、三井寺で出家。
第六部「終活篇?」
長和  6年(1017年)  4月23日 「寛仁」に改元。
寛仁  2年(1018年) 10月16日 藤原道長の3女・藤原威子が立后。
                 藤原道長、「この世をば…」と詠む。
寛仁  5年(1019年)  2月  2日 辛亥革命により「治安」に改元。
治安  4年(1024年)  7月13日 「万寿」に改元。
万寿  2年(1025年)?    清少納言、死没。享年61?
万寿  4年(1027年)12月  4日 藤原道長、病没。享年62。
万寿  5年(1028年)  7月25日 「長元」に改元。
長元  2年(1029年)? 藤原為時、死没。享年81?
長元  4年(1031年)? 紫式部、死没。享年62?
永承元年(1046年)1月18日 藤原実資、死没。享年90。
永保  2年(1082年)? 藤原賢子、死没。享年84?

<最終回はどうなる?>
 紫式部がいつ死んだのか分からない。
 私は藤原為時の出家の理由を「息子・惟規が死んだと思ったら、続けてすぐに娘・紫式部も死んだから」だと考えている。だとすると、最終回は、頭を丸めた藤原為時が2人の位牌の前で語るシーンで終了かと思うが、そういう終わり方ってドラマチックじゃない。総集編の冒頭に使うシーンだ。
 私が考えた最終回のシナリオでは「『源氏物語』の「雲隠」を藤原道長が読むシーンで終了」です。「紫式部が死に、藤原道長が遺品整理に立ちあい、自分がプレゼントした扇の箱を開けると、そこに幻の「雲隠」の巻が入っていて、「雲隠」には三郎とまひろが主人公と思われる話が書かれていて、藤原道長が涙する」です。
──『源氏物語』は全54帖
①巻名のみの「雲隠」を含め「若菜」を上下に分けずに全54帖とする。(中世以前の数え方)
②巻名のみの「雲隠」を除き、「若菜」を上下に分けて全54帖とする。(中世以後の数え方)
③ある時期に、作者の意向、もしくは、作者の近辺にいた人物と作者の協議によって削除された巻があり、実際は全60帖だった。

<紫式部の墓&供養塔> ※和泉式部の墓に比べたら数が少ない。
・京都府京都市北区紫野西御所田町:小野篁の墓の横
・滋賀県大津市石山寺:石山寺の供養塔
・兵庫県神戸市北区山田町藍那の線路脇
・栃木県下野市紫
・千葉県南房総市
・千葉県館山市那古


■藤原道長の御嶽詣


 寛弘3年(1006年) 8月2日、藤原道長一行は金峯山参詣に出発しました。
 皆さん白装束ですね。(ここに藤原宣孝親子が黄色い服を着て混じっていたら、そりゃ目立ちますって。)
 実際、雨降る旅路で大変だったようですが、経筒と中に収める経文に「8月11日」と書いてしまっているので、強行軍になったようです。

『御堂関白記』寛弘4年8月11日条
https://dl.ndl.go.jp/pid/1111828/1/86

 『小記目録』の寛弘4年8月9日条に「(藤原)伊周、(藤原)隆家、(平)致頼(むねより)と相語らひて、左大臣(藤原道長)を殺害せんと欲する間の事」とあるように暗殺計画もあったようですが、無事、14日に帰京。

藤原道長納経

★女人禁制の山上ヶ岳

https://www.siun-jisyouin.com/discipline/nyuubu

大峯修行体験 | 修行体験 | 金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺 (kinpusen.or.jp)
山上ヶ岳 | 天川村公式サイト(奈良県) 観光ページ (vill.tenkawa.nara.jp)

 ロケ地は鋸山(千葉県安房郡鋸南町)ですかね。

※目的は中宮彰子の懐妊だった説(ドラマの設定)

※目的は極楽往生だった説

※詳細記事&動画

■今回の和歌


和泉式部「為尊親王様も、敦道親王様も、私がお慕いした方は、皆 、私を置いて旅立ってしまわれます。まるで私がお命を奪っているみたい」
藤式部 「為尊親王様も、敦道親王様も、短い生涯ながら、あかね様とお過ごしになった日々を、何よりもいとおしくお思いであったと存じます」
和泉式部「もう触れられないなんて‥‥。『ものをのみ 乱れてぞ思ふ たれにかは 今はなげかむ むばたまの筋』。どんなにあの世から私を見守ってくださろうと、二度とお顔を見ることもできないなんて‥‥。親王様とは、心を開いて、歌を詠み合ったものだわ」

  ものをのみ 乱れてぞ思ふ 誰にかは
               いまは嘆かむ ぬばたまの筋(和泉式部)

(敦道親王がお亡くなりになって以来)心が乱れて物思いに沈んでいます。一体誰に、この嘆きを訴えたらよいのでしょうか。いや、訴える相手がいないので、私の黒髪(の筋)も、私の心と同じく乱れているのです。

※ぬばたま:「ぬばたま」(ヒオウギの実)は、真っ黒なので、黒いもの(ここでは筋=黒髪)の枕詞として使用されます。

♪ ひとりぼっちに しないでおくれ

黒髪の乱れもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき(和泉式部)
長からむ心もしらず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ(待賢門院堀河)
かきやりしその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞたつ(藤原定家)
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪おもひ乱れかつおもひ乱るる(与謝野晶子)

───髪の乱れは心の乱れ

 朝起きたら、まずは洗顔と歯磨き。次に一心不乱に髪をとかして(外出予定があれば)メイク。髪をとかさないことは、女を捨てるまではありえない。(志は髪の筋!)でも、心が乱れていれば、「今はそれどころじゃない」と手櫛で済ませるかも? ゆとりがあれば悲劇のヒロインを演じて歌を詠むかも。


  神垣(かみがき)は 木のまろどろに あらねども
            名乗りをせぬは 人とがめけり(藤原惟規)

(斎院御所の神垣は、天智天皇の御製にある「木の丸殿」ではないが、我が名を名乗らなかったので、人に咎められてしまった。)

  朝倉や 木の丸殿に 我居れば
            名乗りをしつつ  行くは誰が子ぞ
(天智天皇)

(朝倉の丸太造りの「木の丸殿」(「黒木の御所」とも。福岡県朝倉市)に私がいると、名を告げながら通り過ぎて行くのはどの家の子だろう。)

───芸は身を助く。

 藤原惟規は、斎院御所の斎院中将との密通が見つかり、捕らえられるも、咄嗟に天智天皇が詠んだ歌を踏まえた上の歌を詠み、咎められるどころか大斎院・選子内親王(村上天皇の娘)に称賛され、解き放たれたという。

大斎院と申す宮の御所の内に、「女房に物申さん」とて、蔵人惟規、忍びて参りたりけるを、侍ども見つけて、あやしみ思ひけるに、隠れて誰とも言はざりければ、門をさしてとどめけるに、
  神垣は木の丸殿にあらねども名乗りをせねば人とがめけり
と詠みけるを、かのたづねらるる女房、院に申しければ、許されにけり。

『十訓抄』
https://www.yatanavi.org/text/jikkinsho/s_jikkinsho10-37

 今昔、大斎院と申すは村上天皇の御子に御座す。和歌をなむ微妙く読せ給ける。
 其の斎院に御座ける時、藤原惟規と云ふ人、当職の蔵人にて有ける時に、彼の斎院に候ける女房に忍て物云はむとて、夜々其の局に行たりけるに、斎院の侍共、惟規局に入ぬと見て、怪がりて、「何なる人ぞ」と問ひ尋けるに、隠れ初にければ、否(え)誰とも云はで有けるを、御門共を閉てければ、否出でで有けるに、其の語ひける女房思ひ侘びて、院に、「此る事なむ候ふ」と申ければ、御門を開て出しけるに、惟規出とて、此なむ云ける、
  かみがきはきのまろどのにあらねどもなのりをせねば人とがめけり
と。
 後に、斎院、此れを自然ら聞食して、哀がらせ給て、「木の丸殿と云ふ事は、我れこそ聞し事なれ」とぞ仰せられける。
 彼の惟規が孫に盛房と云ふ者の伝へ聞て語りし也。
 彼の惟規は、極く和歌の上手にてなむ有けるとなむ語り伝へたるとや。

『今昔物語集』(巻24)第57話「藤原惟規読和歌被免語」
https://hon-yak.net/24-57/

※斎王制:賀茂神社と伊勢神宮の祭祀は、皇族の女性(天皇の娘)が「斎王(斎院)」になって務めていた。賀茂神社の斎王(斎院)は平安京北辺の紫野に置かれた本院「斎院御所」(京都市上京区櫟谷)に住んでいた。
※「斎院の中将(さいいんのちゅうじょう)」役は日向坂46 の小坂菜緒さん。

斎院中将(さいいんのちゅうじょう、生没年不詳)は、平安時代の歌人。大斎院中将とも。
略歴
斎院司長官 源為理の娘で、母は播磨と呼ばれる女房で和泉式部の妹とされる。選子内親王に仕えた。
藤原惟規の恋人であり、『十訓抄』や『今昔物語集』では惟規が斎院中将のもとに夜な夜な通い、ある夜それを警護の者に見とがめられた説話が残っている。『後拾遺和歌集』などに歌が残されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■今回の『源氏物語』


一条天皇「白い夕顔の咲く家の女は、なぜ死ななければならなかったのだ?」
藤式部 「生き霊の仕業にございます」
一条天皇「光る君の夢に現れた女が取り憑いたのか」
藤式部 「誰かが、その心持ちの苦しさゆえに、生き霊となったのやも知れませぬ」

文学から学べることは多い。


雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠の中に、籠めたりつるものを。

「若紫」

藤原道長「小鳥を追いかけていた頃のお前はこのようにけなげではなかったが・・・」
藤式部 「嘘はつくし、作り話はするし」
藤原道長「とんだ跳ね返り者であった」

「見てもまた 逢ふ夜まれなる 夢のうちに やがて紛るる 我が身ともがな」と、むせかへり給ふさまも、さすがにいみじければ、
「世語りに 人や伝へむ たぐひなく 憂き身を覚めぬ 夢になしても」
し乱れたるさまも、いと道理にかたじけなし。

「若紫」

「こうしてお会いしてもまたお会いできるとは限りません。夢の中にこのまま消えてしまう我が身でありたい」と、むせび泣いている光る君のお姿もさすがにいじらしく、「世の語り草として人は伝えるのではないでしょうか。類なくつらい、この身を醒めない夢の中のこととしても」と、藤壺の宮が思い乱れている様も、まことにもっともで恐れ多いことです。

三月になり給へば、いとしるきほどにて、人びと見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世(おんすくせ)のほど、心憂し。

「若紫」

三月になられるとはっきりと分かるようになり、女房たちがお見受けして気にしているので、宮は嘆かわしい宿世のほどを情けなく思われました。

さかしら心あり、何くれとむつかしき筋になりぬれば、わが心地もすこし違ふふしも出で来やと心おかれ、人も恨みがちに、思ひのほかのことおのづから出で来るを、いとをかしきもてあそびなり。女などは、かばかりになれば、心やすくうちふるまひ、隔てなきさまに臥し起きなどは、えしもすまじきを、これはいとさまかはりたるかしづきぐさなりと、思ほいためり。

「若紫」

女が賢ぶって嫉妬し何かと厄介な間柄になってしまうと、こちらの気持ちとしても少し違うところが出て来るのではないかと遠慮し、相手も恨みがちになって、思いがけないことなどがおのずから出てくるものですが、姫君はなんと可愛らしい遊び相手なのでしょう。おのれの娘でも、このぐらいになると、気安くふるまい、心置きなく寝起きするなどは、とても出来ないものですが、これは本当に変わった秘蔵の娘だと君は思うのでした。

※これで5帖終了ですが遅くない? 来年には「源氏物語絵巻」(画風4種、詞書の書風5種)が完成してるわけで、一気に残り49帖を書かないと。詞書はともかく、絵を描くには4人で手分けしても時間がかかる><

■感想

中宮の涙の告白・・・不器用さに感動しました!

藤原彰子「光る君に引き取られて、育てられる娘は、私のようであった。私も幼き頃に入内して、ここで育ったゆえ」
藤式部 「そうでございますか‥‥」
藤原彰子「この娘は、このあと、どうなるのだ?」
藤式部 「今、考えているところでございます。中宮様はどうなればよいと、お思いでございますか?」
藤原彰子「光る君の妻になるのがよい。妻になる‥‥なれぬであろうか? 藤式部、なれるようにしておくれ」
藤式部 「中宮様、帝に、まことの妻になりたいと、仰せになったら、よろしいのではないでしょうか? 帝をお慕いしておられましょう?」
藤原彰子「そのような‥‥そのようなことをするなど、私ではない」
藤式部 「ならば、中宮様らしい中宮様とは、どのようなお方でございましょうか。私の存じ上げる中宮様は、青い空がお好きで、冬の冷たい気配が、お好きでございます。左大臣様の願われることも、ご苦労もよく知っておられます。敦康親王様にとっては、唯一無二の女人であられます。いろいろなことに、ときめくお心もお持ちでございます。その息づくお心の内を、帝にお伝えなされませ」

ここでタイミングよく一条天皇登場。

藤原彰子「お慕いしております」

雪を見て何かを思う一条天皇。
藤原定子の命日は12月16日。埋葬の日には雪が舞っていた。
雪は藤原定子。
「すまん定子。今日から彰子と生きていく」

「ずっと大人にございました」(藤原彰子)

12歳で大人になる儀式をした上での入内以来8年間放置。
これはせつない・・・。


記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。