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悔しさについての手記

「悔しい」という気持ちは、自分を強くさせるのでしょうか。

小さな頃から抱いてきたその気持ちは、もしかしたら私を少しだけ強くしてくれたのかもしれません。
だけども自分が歩んできた軌跡を振り返っても、悔しいのおかげだよ、と思う部分をほとんど思いつかず、それよりも、ネガティブな気持ちをもたらしたというやっかいな事実の方が、私の個性を作り上げる上での影響度は大きかったように思います。

私は決して、平等を求めているのではありません。
そもそも人間は個性があるのですから、みんな平等というのは不可能だと思うからです。
だから、なんにせよ勝ち負けは当然あるべきで、そこから「悔しい」という感情が生まれるのはとても自然のことのように思えるのです。

それならば私はなぜ、「悔しい」に固執しているのでしょうか。

つまるところ私は、悔しいから生まれた、様々なネガティブな気持ちをうまく処理しきれずに、生きているような気がしているのです。
それらを手放す事が出来ずに、ただ、常に頭の片隅、いや45%くらいをそれらが占めていて正常に判断することを遮っているかのような、まるで何か悪夢のようなものを見ているかのような、考えているかのような、事を常に考えているのです。

学力、身体的能力、美的な優劣、感性、全てにおいて私は、誰かに劣っていて、「これだけは誰にも負けない」というものが一つもありません。

負けず嫌いなのかもしれません。いや、きっとそうなのだと思います。
だけど、負けたくないから頑張る、精いっぱい何かに打ち込むといった情熱を傾ける勇気や努力のようなものが、完全に欠如しているのです。

負けず嫌いが功を奏し、立派な人になったという話は子供の頃から聞いてきたはずです。それが、私を努力する方に仕向けず、蔑んだ気持ちを持つようになった事は、私の個人的な問題のようにも見えますが、私の育ってきた環境にも依存しているはずです。

みんな仲良く。助け合う。よく相談する。多数決。平等。
これらが、私の受けてきた教育の概要です。
私はここから、何かを得たのでしょうか。

こう書いてみると、私はただ、私の育ってきた環境に対して不満を抱いているように見えます。

違うのです。

環境に対しては、私は何も感じるところがありません。そうだったんだ、としか言えません。興味すらありません。

私は、この、悔しさから来る劣等感の行き場を見つけたいのです。
ここで、誰かに向けた手記を残す事で、何か、きっかけが生まれるのか。
それは私の願いです。

前を向きたい。

私は、前を向きたいのです。

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