終わらないえんそく〜つれづれメモ2「えんそくと筋少の関係って何よ」〜

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 さて、メモその1で出会いについて書き、その中で「僕の宗教へようこそ」のカバーのすごさについて少し触れたからには、「えんそく」というバンドと「筋肉少女帯」というバンドの関係性について書かざるを得ないのではないかと思う。

 そもそもえんそくというバンドは、筋肉少女帯の二次創作的バンドである。これはどういうことかというと、「筋少のAという曲をえんそくがA'にしたよ!」ということではなく、「筋少(ひいては大槻ケンヂ)の提示する世界観をえんそくというバンドとして噛み砕いて別の世界線として提示しているよ!」ということである。
 具体例を挙げていこう。

 えんそくには代表曲として「最後のえんそく」という楽曲がある。この曲タイトルだが、筋少ファンならば「最期の遠足」をそのまま想起することだろう。
 筋少の「最期の遠足」は、ハイキングバスに乗って遠足に行った少年少女たちが遭難してしまい、ひとり、またひとりと脱落していく。「お友だちは必ず帰ってきます」と先生たちはクラスメイトを励まし、取り残された少年少女はしばらくは雪山で生き抜くが、その後捜索は打ち切られ、その学校の遠足は父兄同伴となった──という、非常に物悲しいストーリーである。
 えんそくの「最後のえんそく」は、この筋少の「最期の遠足」を下敷きにした物語である。はぐれた五人の少年たちは、実はどこかで生きていて、楽しい遠足の続きをしている──。さらにこの少年たちは、「あえて」遠足からはぐれた者たちであり、日常から去るために「高尾山での遭難」という手段を選んでいる。少年たちの遺体がない葬儀をクラスメイトは体験するが、それをはぐれた少年のうちのひとり=「ボク」はこっそり観ている。

 この「最後のえんそく」という楽曲には、筋少の「最期の遠足」をポジティヴに改変しようという情熱と、「はぐれもの」への肯定、が存在している。

 さて、ここでえんそくのボーカル・ぶうのバックグラウンドを少し、私の知っている限り書きたい。
 彼は99年の世紀末のまさにその時期、中二病をしっかり患い、V系四天王以後のV系ブームに直撃し、MALICE MIZERが初めて購入したV系のアルバムで、PIERROTを敬愛し、もちろんDir en greyも好きで、大槻ケンヂの著作で彼を知り、98年発売の筋肉少女帯のコンセプト・アルバム『SAN FRANCISCO』でゴリゴリに内面を描く詩世界というものに衝撃を受ける。オタクで友達とゲーセンに通ったり、授業中居眠り(というには十分すぎる睡眠を)してバレンタインにはクラスメイトに「チョコくれよ!」と言って回るようなお調子者男子である。
 一見「オタク」と「中二病」という要素以外には「陰キャ」っぽいところがなく、思考は基本的にポジティヴで、趣味のゲーム配信でもよくその持ち前のポジティヴ思考のせいで自爆する場面が見られる。

 こういった人物の想定する「はぐれもの」は、いうまでもなく「自分と同じジャンル」の人間である。
 もっと具体的にいうと、生きることに生きづらさを感じてはいるものの徹底的な異物として存在しているのではなく、流されればなんとかやり過ごせるが、そういった人生を送ることに悲哀を感じる種類の人間だ。
 つまり、ぶうの描くターゲットとしての「はぐれもの」には、V系四天王以後のV系ブームを支えた、少し病んでいたバンギャたちや、クラス内透明人間、「自分は周りが馬鹿だと信じていたけれど、実は自分が馬鹿だった」と気づいてしまった人間などが含まれる。

 私がえんそくを「筋少の二次創作バンド」とたまに説明するのは、この部分による。
 なぜならば筋肉少女帯もまた、当時の生きづらさを抱えた「はぐれもの」たちへむけた──それは同時に大槻本人の傷を癒すための内容であったのだが──楽曲を提供するバンドだったからである。
 ただし筋少とえんそくの歌詞のスタンスの違いというのは明確にあり、それがボーカル・ぶうのこの「基本的にはポジティヴ」というキャラクタに裏打ちされたものなのだ。

 えんそくというバンドのコンセプトを説明するときに、ぶうはいくつかの「方便」を使い分ける。
 そのうちのひとつが、「筋少の『最期の遠足』ではぐれた少年たちが実はまだ楽しい遠足の続きをしているということを体現したバンド」というものである。
 筋少の「最期の遠足」ではぐれた「2人と5人」のうち、2人は落命する。そして、残った5人はしばらくキノコ山で生き延びる。
 この「5人」が、方便上での「えんそくのメンバー」である。
 だからぶうは「僕の宗教へようこそ」で少年教祖になるし、その違和感というものが存在しない。
 ぶうの演じる「ボク」の一面として、そこには大槻が仮託した「少年」が顕在するからである。
 さらにこの「少年教祖」である「ボク」は、生き残りの「はぐれもの」を引き連れ、楽しい「えんそく」の続きを行なっている。それは「夜泣く!噂の赤んぼ少女」での「ヘンテコ楽団」が行う遠足であるし、「嫌なコトからは逃げちゃえ!」の、14歳の姿を保ったまま自分の都合の良い世界で生き続ける少年の人生でもある。

 筋少の楽曲が「逃げるものの悲哀」であるならば、えんそくの楽曲は「逃げるものへの肯定」である。
 ここにもぶうというキャラクタのバックグラウンドが関係してくる。
 ぶう含め、我々同年代の人間は99年7の月に青春を過ごした。あの世紀末、あの夏。人々はどこか浮かれて、「どうせみんな死ぬ」というなんとなくぼんやりとした「死への想い」があり、「でも世界が続いてしまったらどうしよう?」という不安があった。私たちはあの狂乱の最中にあって、正気でいることを求められていた。
 ノストラダムスが予言した、世界の終わり。きっとそれは来る、いや、来るんじゃないかな、来なかったら困るからとりあえずその日まで真面目に生きていようか、だって世界が続いちゃったら「終わる予定の日」がすぎたあと、ツケが回ってくるもん。
 生まれた時から否応なく巻き込まれることがわかっていた騒動に、私たちは学生で無力で、思いっきりグレることもできなければ「人類滅亡なんて馬鹿じゃないの」と笑い飛ばすこともできなかった。なんとなく、世界が終わることが救済だと思っていた。
 そういう、あのとき「ノストラダムスの大予言」に代表される理不尽から面と向かって逃げられなかった私たちに、ぶうは「逃げても良い」「不都合な物語は改変すればいい」と、はっきりと示したのであった。


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