『つらみ』『死にたみ』という言葉が織りなす世界

『つらみ』とか、『しにたみ』というような言葉をソーシャルメディア、まあ、ほぼTwitterだが、最近よく見かけるようになった。『〇〇み』という響きは、『つらさ』や『死にたさ』というシリアスな心的状況にも拘わらず、なにがしかのかわいらしさすら感じるギャップのある言葉であり、僕はそこになぜか魅力を感じてしまった。

例えば、『痛み』や『苦しみ』というような言葉はあっても、現実世界で『つらみ』とか『しにたみ』というような言葉はあまり聞かない。形容詞を無理やり名詞化したようなこの言葉は、主観的感情をいくらか客観視しているように思える。あるいはオースティンのいうように『つらい』『死にたい』が行為遂行的なのに対して、『つらみ』『死にたみ』はどちらかといえば事態陳述的だ。このような表現は抽象と具象の間を行く不安定感情ともいえる。

『苦しみ』を感じるということはできても『苦しい』を感じるとは、言えない。『苦しい』とは感じそのもの、つまりは主観的感情であるのに対して、『苦しみ』はどちらかと言えば客観視された感情といえるだろう。『死にたみ』も『つらみ』も、その言葉を使うことで、主観的な感情から、身を少し離して『死にたさ』『つらさ』を思考しているのではないか。

リアルには引き受けたくないけれど、それでも身にまとう感情を、なんとか表現し、気持ちを整理したい。人間はきっとそうやって生きてる。生きるとは苦しみの連続であるから。

君の『苦しい』を理解しようとすることは、僕にはできないけれど、君の『苦しみ』を理解しようとすることはできる。誰かの『つらい』も『死にたい』を理解しようとすることは難しいけど、『つらみ』『死にたみ』はきっと他者との共有可能性を有するのだと思う。

では『苦しさ』と『苦しみ』の違いは何だろう。『苦しさ』というのは相当程度、客観化された感情と言える。『苦しい』という主観的感情に対して、『苦しさ』はそれをもろに客観視する。一方『苦しみ』はどちらかといえば主観的要素を残す。赤さ、赤み、の対立からもそれが理解できるであろう。

『つらみ』というのは、客観的な感情である『つらさ』とは大きく異なり、『つらい』という主観的感情を少し残しながら、主観的な感情そのものを相対化することで、他者との共通了解の可能性を広げた形といえよう。つまり『つらみ』は主観的要素を残したまま、発信者から離れた独立した実体として存在する。いわば主観的感覚を丸ごと結晶化したような、そんな人間味あふれるニュアンスを含んでいるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?