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骨折してもひとり

高校に入学して1ヶ月半ほど経った頃、乾いた咳が出るようになった。日に日に悪化し、寝ている時以外は常に咳が止まらなくなった。同時に気管が詰まっているような感覚があり、息をするのも苦しかった。
体育の授業の際、気管が苦しいので見学をしたいと申し出ると、体育教師は私が喘息持ちでも風邪を引いているわけでもないことを確認したあと、「ストレスじゃないか? 環境が変わったりしてストレスでそういう症状が出ることもあるみたいだから。大丈夫? 学校楽しい? 友達いる?」と聞いた。私はうつむいたまま機械的に「大丈夫です」と答えた。

この体育教師は、2週間ほど前の授業の初め、「自由に5人グループ作って、できたら座って」と命令した。その瞬間、私は綿矢りさの『蹴りたい背中』の一節を思い出した。

「今日は実験だから、適当に座って五人で一班を作れ。先生が何の気なしに言った一言のせいで、理科室にただならぬ緊張が走った。(中略)高校に入学してからまだ二ヶ月しか経っていない六月の時点で、クラスの交遊関係を相関図にして書けるのは、きっと私くらいだろう。当の自分は相関図の枠外にいるというのに。唯一の頼みの綱だった絹代にも見捨てられ、誰か余ってる人いませんか、と聞かれて手を挙げた、あのみじめさ。」

私は「蹴りたい背中」の主人公の長谷川初実と同じくクラスの余り者だった。しかしこの時、緊張が走ったのは理科室でも体育館でもなく、私の中だけだったかもしれない。既に女子の仲良しグループは固定されていて、みんなごく自然に、あらかじめ決められていたかのごとくグループを作っているように見えたし、グループを作るくらいでいちいち緊張していたのは唯一の余り者の私だけだっただろう。

5人グループを作ったクラスメイトたちが次々と座っていくのが、あのみじめな瞬間へのカウントダウンのように思えた。どうかその瞬間が訪れないで欲しいと願ったが、棒立ちのまま動かない私を見て、無情にも体育教師は言った。

「どうした? 早くグループ作って。友達いるだろ?」

この体育教師は、先々週も私に友達がいないことを確認したはずなのに、再び同じことを聞いて傷を抉っているのだ。まるで配給のように生徒全員に友達というものがあてがわれるとでも思っているのだろうか。
だが、もし物資配給のように友達が配給されるとしても、友達が不足していたわけではない。私は友達配給の列に並ぶことすらできなかった。
なぜなら長谷川初実と同じように「私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ」と思っていたからだ。話を合わせたり、毎日一緒に弁当を食べたり、いちいち一緒にトイレに行ったりしなければならないといった暗黙のルールは耐え難い。余り者でいるよりもグループに縛られる方が苦痛だった。

とはいえ私はいじめられていたわけでも、ハブられていたわけでもない。クラスメイトは基本的にみんな優しかったし、挨拶してくれたりたまに話しかけたりしてくれる子も何人かいた。私が咳をしていることを心配してくれた子もいたし、この体育の授業の時も最終的には気を遣ってグループに入れてくれた子もいた。
ただ、いつも休み時間や放課後に遊んだり、昼休みに一緒にお弁当を食べたり、一緒にトイレに行ったり、一緒に教室を移動したり、授業で当たり前のようにグループやペアを作ったりする「友達」がいなかったのだ。

私は小学生の頃から友達がいない状態には慣れていたし、それが寂しいと思ったこともなかった。みんなと仲が良いわけでも悪いわけでもないただのクラスメイトという関係を築けていれば、私にとっては十分だった。
だからそれほど高校生活が苦痛というわけではなかったし、体育教師が言うようにストレスを感じているとも思わなかった。むしろクラスに友達がいないからストレスが溜まっていると言うのなら、勝手に決めつけないで欲しいと思った。

一方で症状は悪化の一途を辿り、咳だけでなく痰が絡んで吐き気を伴うようになり、見かねた親に病院に連れて行かれた。
内科でレントゲン検査や血液検査をするも特に異常はなく、症状の全てが原因不明だと言われた。喘息用の吸入器を処方されたものの、特に効いている実感もなかった。

その後も症状は治まる様子がなく、背中側の腰に近い肋骨のあたりに僅かな痛みを感じるようになった。僅かだったのでそれほど気にしていなかったが、ある朝いつものように咳をした瞬間、その僅かな痛みは激痛に変わった。それまで味わったことのない衝撃が肋骨から全身を貫いた。
あまりにもズキズキと響くように痛むので、学校に欠席の連絡をして病院に行くことになった。歩くのも一苦労で、なんとか辿り着いた整形外科で痛みに耐えながら撮られたレントゲンを眺めて医者は言った。
「ああ、これ折れてますよ」
骨折という事実を伝えるにはあまりにも軽やかな言い方だった。咳で苦しみ続けてきた約1ヶ月間が、途端にあっけなく感じた。

レントゲンを見ると確かにはっきりとしたヒビが私の肋骨を横断していた。人生で初めての骨折。咳をする時の筋肉の収縮で肋骨に負担がかかり、疲労骨折したということらしい。
「筋肉や骨が弱いから折れるわけではないですよ。鍛えてる人でも折れたりします。あなたは綺麗に折れてるので、ほっとけば自然にくっつきます。骨の位置がずれてたら手術が必要なんですけどね。コルセットで固定してなるべく動かないようにしてください。よく学校で女の子って女の子にいきなり抱きついたりするけど、そういうの気をつけてね」

診察が終わり痛み止めをもらってコルセットを巻いて帰った。私にはいきなり抱きつかれたりするような友達がいないのでその心配はいらないことは言わなかった。

翌日、私はコルセットを巻いた上に制服を着て、気休め程度の痛み止めを飲んで学校に行った。

じっとしていれば痛くなかったが、起立、礼、着席をする時や歩く時など、挙動のひとつひとつに慎重さを求められた。
理科や家庭科、体育の授業のために移動する時には、ただでさえ歩くのが苦痛だった廊下が、いっそう長く思えた。
高校では教室を移動する時に女子はたいてい固定のメンバーで移動するのが当たり前で、いつもひとりで移動している女子は私以外に見たことがなかった。友達がいないことは寂しくなかったが、「友達がいないかわいそうな子」というレッテルを貼られるのは屈辱だった。他のクラスの教室の横を通る時は、教室は観客席で廊下が動くステージとなり、窓を隔てて自分が見世物であるかような気分にさせられた。

もちろん骨折したことをわざわざ報告するような友達もいなかったので、誰も私が骨折しているとは知る由もなかった。

骨折といえば、よく運動部の子が脚や腕を骨折して包帯を巻いて松葉杖をついて登校するとみんなに心配されてチヤホヤされ、ネームペンで包帯にイラストやメッセージを書いてもらっていた情景が目に浮かぶ。
骨折するとそういう待遇を受けるものだと思っていたが、私は違うらしい。私は今、みんなと同じように制服を着ているが、その下にはコルセットが隠れていて、その下の肋骨は折れている。人知れず痛みを抱え、骨折している。
私は骨折してもひとりなのだと思った。

それでも午後には近くの席のクラスメイトが昨日はどうして休んだのかと聞いてくれて、咳のし過ぎで骨折したことを話した。その後も私の骨折を知った近くの席の人たちが気遣ってくれた。クラス全体に知れ渡ることはなかったが、その時気遣ってくれたクラスメイトたちはとても親切だったと思う。

その後肋骨がくっつくまでの約1ヶ月間、体育の授業は見学した。体育教師に咳のし過ぎで骨折したと伝えたが、この時は特に何も言われなかった。

同時に咳も徐々に出なくなり、全ての症状が治まった。

この一連の症状の原因がわかったのは、高校を卒業し、大学入学時やサークルに入った時に同じ症状が出てからだ。環境が変わったり慣れないことをするとこの症状が出ることに気がついて、ネットで調べるとストレス性の気管支喘息の特徴に見事に当てはまった。
高校も大学も嫌だと思っていたわけではなかったのでストレスだとは思いもしなかったが、心理学的には環境が変化するだけで多大なストレスになるものらしいし、どうやら私はストレスを自覚するのが苦手なようだった。

皮肉にも、あの体育教師の見立ては正しかったのだ。


引用
『蹴りたい背中』綿矢りさ著、p.8-9、河出文庫、2007年

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