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志村けんさんの訃報に想う事

これまで地球上に訪れた幾つもの危機を乗り越えて、ボクと言う生命は誕生している。

近い将来か遠い未来か分からないけれど、いつかこの未曾有のコロナショックからも抜け出す日が来るだろうし、そうなるだろうと信じている。

そしてその日が来た時の為に、今日はこの記事を書き残しておきたいと思った。



2020年3月9日を以って、ボクの2019-20シーズンは『中断』したと思っていたけれど、どうやらそれは『終わり』に近いようだ。

イタリアにはGovid-19が蔓延し、例え『Juventus』の文字で検索をかけたとしても、出てくるもののほとんどがこのウィルスに関するものだ。ユベントスの一部選手からは陽性反応が検出され、イタリアの惨事を目の前に母国へ帰るプレーヤーも出て来た。もはやカルチョどころの話ではない事は、遠い日本から見ても明らかだった。

その日本にしても緊急事態宣言が出るか出ないかの瀬戸際に追い詰められおり、家と会社の往復でさえも『危険』と表され、ネットニュースでは『陽性反応』の文字が賑わせる日々が続いている。もはや対岸の火事ではなく、いつ何が告げられてもおかしくない局面を迎えている事は明らかだ。

そして2020年3月30日、幼少期からボクを笑いに笑わせてくれていた偉大なるコメディアンが、このウィルスが原因により命を落とす事になった。



ボクにとっては大きな大きなショックだった。たぶん、銀色のたらいが頭の上に10000回落ちるよりも、大きな衝撃を受けた。

小さい頃、おばあちゃんの家に親戚が集まり、テーブルを囲みケタケタと笑いあっていたあの日の事を思い出した。あの時、まだ産まれたての妹を見て「この番組が分からないなんて可哀想だね」なんて思ったっけ。

全員集合は終わったけれど、その後に「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が始まって、安堵した少年の日のボクがいた。でもやっぱり5人の方が圧倒的に面白かった。

PCエンジンを購入してもらった時、最初にプレーしたソフトは『カトちゃんケンちゃん』だった。確か横スクロールのゲームだったな。


その時から35年近くの年月が経ち、ボクはすっかりテレビを見なくなったけれど、今では35歳になった妹が息子と一緒に志村どうぶつ園を見て、2人で顔を見合わせながら微笑んでいる。

志村けんは、時代を超えても志村けんのままだった。



改めて思った。「ボクは月刊ユベントスを書き続けよう」と。

正直に言えば、このご時世の中でネタ記事を公開するのには抵抗があったし、いつ『不謹慎だ』って言葉が飛んでくるんじゃないかと構えてもいた。

それでも書き続けたのは、ユベントスで笑顔を届けたいからだった。ボクの記事でみんなを笑わせたいからだった。こんな空気を吹き飛ばしたいからだった。


あの時、テレビの中でヒゲをたくわえて踊っていたコメディアンがボクで、テレビの前で笑っていた少年が毒者だ。

到底、志村けんには敵いっこないけれど。

それでも、「ひとを楽しませたい」と言う想いは同じだと思う。



だっふんだ



志村けんだって「こんな時こそ笑わせたい」と思っていたはずだ。


〜志村けんさんを追悼して〜

2020年3月30日 月刊ユベントス編集長ミツ

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