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読書体験とは人生と同じである

読書体験とはその本と出会ってから別れるまでの期間

私たちは日々、様々なことを経験する。
経験は日々、積み重ねられ、膨大な知識と変化してゆく。
そして、経験するために残された時間というのは、私たちに平等に与えられている。

時間というものには限りがある。
どのように経験して、どのように捉えるかは、私たちに委ねられているが、実際に経験できる時間というものには限界がある。
人が一生のうちで経験することには限りがあるのだ。
自分が納得するまで、生きていられる人はいない。
そして、皮肉にも、知識というものは知れば知るほどに知りたくなるようにできている。

どのような立場の人であっても、人間として完成することはできない。
かつての偉人や、多くの著名な人物が、残してきた文献や文章が現代の私たちの血肉になっている。そのような『人類として積み上げてきた歴史』によって、私たちは日々を生きている。
私たちが生まれた時から、太陽は東から登って西に沈むことは当たり前だし、地球が太陽の周りを一年かけて一周していることも『当然の事実』として、そこにある。
現代では、生まれた時からスマホがあることが当たり前となった子供も多数存在する。私たちの記憶に新しい、“世紀の大発明”として『アイフォン』を発表していたスティーブ・ジョブズは、もはや偉人となっている。

こうして、歴史を積み重ねてきたからこそ、『現代』という時間が存在できている。
このような歴史は、いとも簡単に忘れられてしまうものだが、そうした歴史を“目撃”する方法がある。それが、読書である。

私たちが、現在の価値観や、現在の常識を積み上げてきた“経緯”を確認できる。“当時の言葉”として、目撃することができるのである。
現代に翻訳されているものもある。読みやすいように、平易に書かれている優しさの塊である『現代語訳』などが存在するのに、私たちは『原文』を読みたがる。そこには、「『原文』にこそ、当時の温度感を感じることができるのではないか」という、微かな希望が見え隠れする。
皆、“歴史の目撃者”になりたがっている。だから、本を読んでいると言っても過言ではないだろう。

“歴史を目撃したい”読者諸君が、読書と出会うことは、まさに読書体験と言える。
かつての人々が書き残した文献、書籍を読み漁る。
それはまるで、人生の経験だけでは足らない部分を埋める作業と言えるのではないだろうか。
私たちは、今現在出会う本によって、作られていく。
“その本と出会ってから別れるまでの期間”というものを、『読書体験』と定義づけるならば、“人生を変える読書体験”というものはどう言ったものなのか、私なりに解釈をまとめたいと思う。

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