短編小説「ジャジャジャジャーン」
引っ越しを機に捨てようと思っていたコンバースに一度足を通してすぐにまた脱いだ。全ての荷物を運び出し掃除を終えた、五年間住み慣れた部屋を最後にもう一度目に焼き付けておきたかったからだ。
一通り思い出に浸った後、以前ソファの置いてあった床に大の字に寝転がって天井を眺める。これから鍵を返し、転居先の片付けをして、その前に市役所に行こうか、などと考えているとチャイムが鳴った。
もう出ていくのに面倒だなと思って無視していたが、一向に鳴り止まないチャイムに根負けした。しぶしぶ起き上がるとドアの向こうには二ヶ月前に別れて出て行った元カノが立っていた。仕事の外回りの途中なのだろう、スーツ姿に重そうなバッグ肩にかけている。
「上がってもいい?」
「お茶も何も出せないけど」
そうだろうと思って、と彼女は後ろ手に隠していたコンビニのビニール袋から缶ビールを出した。
「引っ越し祝いです」
「仕事中なんじゃないの?」
「大丈夫よ、一本くらい。おお、こんなに広かったっけ?」
もうすでに一杯引っ掛けてきたんじゃないかと疑いたくなるような陽気さで部屋に上がる。気がついた時には小気味いい音を立ててビールを開けていた。
「何してたの? 掃除?」
「いや、もう終わって出ようとしてるとこだった」
「ギリギリだったんだ。ってことはあれだね、ジャジャジャジャーンだね!」
出た。彼女の口癖だ。好きな食べ物が同じだと知った時、誕生日が同じだと分かった時、二人同時に告白のメールを送った時、彼女はいつもそう言った。「運命」という言葉を使うのが恥ずかしいから、と言っていたが僕からすればそっちの方が変じゃないかと思っていた。
「まあ、元気そうで良かったよ」
彼女に倣って缶を開けて半分程飲んだ。片付けで疲れた体に染み込んでくる。
「もっと病んでると思った?」
僕は首を横に振る。そんな性格ではないとわかっていた。が、再び会いにくるというのは意外だった。しかもこんなタイミングで。そう言えば、
「なんで引っ越しの日を知ってたの?」
もちろん彼女には教えてないし、家族と会社の一部の人にしか言っていない。そこから聞いたとは考えにくかった。
「家賃高いからさっさと引っ越すだろうなって。でももし私が帰って来たらって考えて一ヶ月は延ばすんじゃないかなって。休むなら有給使いやすい月末かなっていう推理」
さすが、と僕の心理まで見事に的中させた彼女には感服せざるを得なかった。そもそも彼女はその名探偵ばりの推理力で僕の愚かな浮気を見抜き、ある日突然自分の荷物を綺麗さっぱり持ってこの部屋を出て行ったのだ。
「これからどうするの? 噂の彼女と一緒に住むの?」
「どんな噂だよ。あの人とはそういうのじゃなかったから」
「ふーん」
彼女はなぜか興味なさそうな生返事をした。それとは裏腹に部屋の中を懐かしそうに見回しながらビールに口をつけた。その彼女の様子をぼんやりと見つめているとふいに目が合った。
「なんか色々あったなぁって思って」
感慨深そうに呟いた後、なにか思いついたように「あっ」と彼女がバッグからスマホを取り出した。残り少ないビールをちびちび飲む僕を尻目に黙々と操作を続ける。
「これ覚えてる?」
彼女は身を寄せ、スマホの画像を僕に見せてきた。それは五年前、ここに二人で引っ越してきた時に家の前で撮った写真だった。幸せそうな笑顔の僕たちが部屋番号と表札を指差しながら写っている。
「忘れるわけがない」
僕と彼女の誕生日が三月四日で、同棲に選んだこの部屋も三○四号室だった。これには僕もさすがに運命を感じたが、彼女の盛り上がり方は予想以上で、この写真を撮る時も「ジャジャジャジャーン」を繰り返していた。
なぜ別れてしまったのだろう? この写真を見て急激な後悔が襲ってきた。なぜあの誘惑に勝てなかったのだろう? せめて僕が別れたくないとプライドを捨ててすがっていれば、今頃彼女が帰ってきたら一緒に見るDVDを選んだり、帰りにビール買ってきてとメールしたりする平凡で幸せな日々が続いていたかもしれない。
「私そろそろ行くけど」腕時計をちらっと見た彼女は二人分の空き缶をビニールに入れて立ち上がった。
「最後にまたあそこで写真撮る?」
僕は一瞬考えて「いや」と断った。彼女は少し残念そうに「そっか」と言って玄関に歩き出す。少し遅れて立ち上がり、見送りをしようと玄関へ行くと彼女は自分の靴と並ぶ僕のコンバースを見ていた。
「これまだ履いてたんだ」
「うん、引っ越しのついでに捨てようと思ってたんだけど」
「昔から捨てられない人だったもんね。私のことは捨てたくせに」
全く笑えないことを平気な顔で言う。僕は苦笑いするしかなかった。
「じゃあ元気でね。縁があったらまた会おうね」
小さく手を振り、階段を下りて姿が見えなくなるまで彼女は一度も振り返らなかった。
予想もしていなかった意外な場所で彼女と再会し、「ジャジャジャジャーンだね!」と言う嬉しそうな声を再び聞くのはこの二年後のことだ。
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